2016ユーキャン新語・流行語大賞

流行語、流行語というが、一年前に何が起きていたか。記憶が怪しい。既に一年を振り返るのが長すぎるのではないか。

 

時間の経過が早いのは大人になったらからではあるまい。今のサイクルの速さは、決して記憶力が低下したからでもあるまい。


一年前の冬に何があったかなど、遠い遠い過去である。春の出来事も過ぎ去った昔だ。この断絶感は何だろう?

 

過去から連続する自分というより、何もかもが通り過ぎて、終わったように感じられる。これは当たり前だろうか。

 

ベッキーがどうなろうと、SMAPがどうなろうと、そりゃどうでもいい話である。流行語に目新しさがないと言うより、所詮は他人事よね、という話ばかりである。それに気付き始めただけではないか?

 

どうでもいい事が夏にあった。そんな昔だっけと懐かしむ。仮に思いださなかったとしても、どうでも良い話であったはずだ。

 

インターネットの普及によって言葉は増えた。しかし、それは振幅が大きくなっただけで、波長が長くなったわけではない。逆に波長は短くなった気もする。一年の間に起きる波の数が増えている。人間の記憶が波の数で決まるなら、波の数が多くなれば忘れられるのは当然である。

 

これまでの一年を12の波としているならば、最近は、54くらいの波に変わった。月刊誌から週刊誌に変えて10号前の感想を求められているようなものだ。

 

気に入った単行本を買うように、ある事件を振り返るなら、話題として思い出すだけではなく、その後にどのなったのか、知らないけど今、がどうなっているかを伝えてほしい。そういう欲求はある。

 

流行語大賞という切り取り方が既に時代遅れである。我々は過去を気まぐれで振り返る余裕はない。もし見つめるのならもっと深く長く見つめていたい。必要なのは、流行語ではない。どう遍歴していったか、その後である。


ただ過去を振り返るではなく、ひとつの歴史として、もっと深く過去に戻ったり、そこからどんな歴史を辿ったのか、そういう放送も増えるだろう。これらは同じ流れにある。時間の粒度が細かくなってきた事と無関係とは思えない。

 

粒度が細かくなった。だから、詳しく知りたい。そういう流れではないか。