長谷川博己さんが明智光秀役! 2020年大河ドラマ「麒麟がくる」

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主演:長谷川博己

脚本:池端俊策

 

大河ドラマには時代を映し出す鏡のような所があって、少なくとも映像技術、大道具小道具、照明、カメラなどには色濃く反映される。時代の要請は脚本にも演技にも色濃く射影される。これだけの予算と時間をかける大勢に人が携わるドラマに何の意味も見出せないようでは味気ない。

 

2018年の西郷どんは、島津斉彬の造形はすごかったが、そのほか諸々、細部がくだくだ過ぎて見るのは辞めた。大名屋敷に子供が潜り込むは、それを見落とす警備のずさんさと、お前らクブルスリー統合作戦本部長への襲撃を防げなかった警備兵と同じかよ、という絶望感だ。薩摩はこれから大きく羽ばたくわけで、こんなのありえない。この程度なら、幕府の密偵によって情報は筒ぬけでなければ理屈が合わない。

 

右腕を怪我しているが NHK の CM を見る限り、その後も怪我をした右腕に剣を持って駆けずり回っている。握れなくなったのなら左じゃないかな、と訝る。史実は知らないけど。

 

大河は長らく見ていない。現在進行形で見たことは一度もない。最後に見たのは翔ぶが如くの再放送であるし、押しドラは花神

 

あの当時のドラマと今の大河では何かが違う気もするが、では何かと問われると返答に窮する。映像がおしゃれになったのは間違いないが、野蛮さや野望みたいなものも消えいてるようである。社会の潔癖さを映しているのではないか、いや本当にそうだろうか。

 

どのようなドラマでも主役は好まれなければならず、そのためには、どうしても時代時代の価値観を体現しなければならない。最終的には主役がいい人でなければならぬし、そのいい人とはその時代の鏡である。もし悪い人に見えるならそれなりの理由がいる。ドラマは一人ではないので、足りない部分を他の役が埋めるような工夫がなされる。

 

明智光秀を描く理由が理解できない。このクーデターに失敗した無能者の別の側面に光を当てたいのなら、そこには新しい共感が得られるような工夫が必要である。虐めに耐えかねて信長を討った、信長の暴走を止めるために討った、陰謀論によって討ったなど様々な理由が考えられるのだが、民主主義の出来損ないみたいな理由だけは御免こうむりたい。

 

民のためなどという理由では全く面白くない。しかし史実では、かなり領民を大切にした君主である。だから彼の領民の末裔たちは今も彼を大切にしている。だが、丹波でのそういう評判を全国区にするのを新しい解釈とか言うようではスカスカだ。

 

光秀の汚点といえば、信長を討った後の敗戦である。これだけは頂けない。諸侯からの人望のなさなど、準備不足の感は否めない。するとあの事件は突発的だったと思われるのである。この敗戦は項羽のようなものなので、光秀を項羽に見立てて日本版の項羽と劉邦として描くのも悪くない。すると本当に重要なのは信長ではなく秀吉か。

 

光秀の治世は良いのだが、国をどうするかのビジョンは疑わしい。そういう姿勢があったのかさえ知らない。しかし、ない知識を総動員しても秀吉にしろ家康にしろ後世の結果論を知っているだけで、その当時に彼らがどういうビジョンを持っていたかは知らない。だが、当時の人々がその後の事を考えていないはずがない。一番長く考えられた家康が最も頑健な体制を築けたのだろう。

 

どちらにしろ光秀を描くとは信長を描く事だと理解する。信長は光秀なしでも十分に描けるが、光秀は信長なしで描くのは難しい。

 

だから新解釈でやるなら信長は端役にする。秀吉と光秀の争いをメインで描く。そして秀吉に嫉妬する光秀、史実とは全く異なるかも知れないが、戦国時代のサリエリとして光秀を描く。するとこれは演技としても面白みがある。

 

なぜ私が信長様を討ったのか、殿が秀吉殿の方を愛したからではないですか、みたいな BL だね。