文科相、改めて手続きを問題視 あいちトリエンナーレ補助金不交付

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あいちトリエンナーレ2019の問題は、複合的、多重的な側面を持ち、まるでラーメンスープの話題かという気もしないではない。

 

だが、アクターはそう、多くない、補助金を出した文化庁、それを使い開催を決めた愛知県、イベントを企画、実施した美術関係者。そして観客、その中にはテーマや作品に対し嫌悪を感じた者、SNSでの意見表面に留まらず脅迫を行った犯人も含まれる。

 

現代美術は難しい。1世紀前の芸術なら、たぶん分かる。例えピカソの絵がわからんという人だって、でもお高いんでしょう、くらいは言える。所が、現代美術ときたら、尿瓶をさかさまに立てただけで芸術ですと宣言しちゃうのである。

 

そんな作品群が堂々と美術館に並べられている。それをさも分かったような顔をして覗き込んだり、疑問符の浮いた顔をして眺めている。それも含めてアートなのだと聞いたこともある。見た時の、なんだ、これ?というインスピレーションこそがアートであるらしい。それがアートなら見てはならないものを見た経験は全部アートじゃないかという気もしないではない。

 

人が立ち止まり、一瞥でもくれたのならそれはアートなのだ。そこにあるものが何であれ、それはあなたの常識を揺さぶったはずだ。

 

所が現代美術である限り、現代の問題が色濃く影響を与えないはずもなく、そういう問題を取り上げるも、取り上げないも、ただ芸術家の気質によって決まる。激しく政府批判をするアーティストもいるだろうし、当然ながら、戦争にインスピレーションを受けた人だっているのである。

 

そういうのも含めて現代作品を展示し、みんなに楽しんでもらおうとしたのがトリエンナーレである。イタリア語で三年に一度という意味らしい。トライアングルのト。シンナーとは何も関係ない。

 

今回の問題は、「表現の不自由展」と銘打った部分に限定される。これまで様々な規制を受けてきた作品を集めた展示会になる。題名も意図的で、批判が来ることは百も承知していたのだろうが、その圧力は想像を超え強く、また脅迫にまで発展した。特に京都アニメーションでの蛮行のため、主催者たちが、その作品たちを取り下げるのには十分な理由となった。

 

ここにおいて、表現の自由とは何か、作品への好き嫌いとは何か、作品と暴力との関係をどう見るべきか、脅迫に屈服する自由の価値とは何か、と様々な側面が見られたのだが、残念ながら、問題の本質は誰も捉えてられていないように思われる。誰もが、批判はするし意見表明をするが、どう考えるべきかという理念は示せずにいる。

 

これが権力闘争なら、開催を中止に追い込んだ人たちはその結果に満足しているだろう。もちろん、彼らは自分たちが何を達成したのかには無自覚だし、言論の自由という言葉も知らないはずだ。だが、「不快」なものを拒絶する権利は誰もがもっているはずであるし、それを表明する言論も自由に含まれるはずだ。

 

例え差別や偏見であっても、例えナチスを礼賛する表現であっても、それを止める論理を表現の自由は持たない。自由という限り、あらゆる制限は否定されなければならぬ。それでは困ると言うのであれば、我々は自由をどこまでは譲れるか、という議論と、それを支える思想、理念、根拠と、では、実際に譲れない場合、どのような対決方法によってそれを解決するかの合意をしておく必要がある。

 

つまりこの事件に自由の問題などなかったという事である。芸術家は作品によって自分を披露する。そして、人々の嘲笑や軽蔑を受ける場合もある。無残にも作品が泥まみれにされたり、火をつけられたりもする。社会によっては、それを当然とする。それは何も他の国の話ではない。この国だって、昔はそうであったし、今だって、知らないだけで自己検閲、自粛を腐るほどやっている。

 

我々は元から自由について語る思想も持っていない。ごっご遊びをしていて、問題が起きる度に、互いに妥協点を見つけてきた結果があるだけで、本質から考えた結果などどこにもない。我々の自由に我々の理想は何も含まれていない。おそらくアメリカの人が命を懸けてまで守ろうとする自由とは異質のものだ。

 

この自由の違いが、アジアとヨーロッパの違いなのか、それともこの国に独自に生まれたものかは知らない。だが、そもそも何の制限も受けない自由など、人間は一度も手に入れていない。常になんらかの様々な制限を受けてきた。食わねば死ぬ、空を飛ぶ自由もない。この重力から抜け出す事も出来ない。仏教なら輪廻というだろうか。

 

だけど自由はあるという思想、その自由はたぶん、脳の中にある。その中にだけはある、と我々は信じている。薬で考える自由を奪われた患者もいるし、手術で前頭葉を切られた実験台だっている。それでも、我々はこの自由だけは奪えないと信じている。

 

ならば、脳の中にあるものを、外に出す事が、自由の本論であるのか。だが「表現の不自由展」が狙ったものは、そんな問題ではなく、非常に金の匂いがする。津田大介であることも問題をややこしくしている気がする。あいつがかかわったものを芸術を呼ぶ気はしない、という気もしないではない。

 

芸術がやりたければ、金などとらずタダでやれ、駅前で歌っている人たちのように。もし金をとるなら、それはただの作品ではない、商品である。芸術だって商品である。だが商品なら、最重要なのは品質だ、売れないなら廃棄して当然。クレームがきたら対応しなくちゃならない。自由?そんなもの後回し。

 

すると、これはクレームに対して単に商品を陳列台から取り下げただけの話だ。ブランド品だって、黒人を馬鹿にしていると指摘されれば即時に取り下げる。それとどこが違うのか、グッチやプラダだって自分たちの商品は芸術と堂々と主張しているはずだ。

 

芸術だから自由があるのではない。商品だから自由がないのでもない。自由はある。厳然とある。だが、その自由は、経済の中に取り込まれた時、どれほど残るかは別の問題だ。君の意見をテレビを通じて発表したいなら、これこれの規則は守ってくれ、この規制を覆すには相当な政治力がいる。あのヒットラーでさえ好き勝手に喋っていたわけじゃない。

 

インターネットがもたらしたSNSは極めて人の自由を拡大した。自分の考えを表明する自由もあれば、それを批判する自由だってある、そんなことは17世紀の人だって当然と考えていたのだが、多くの人が手にした自由は、それが批判であるのか、罵倒であるかの区別もつかない我楽多である。

 

作品と呼ぶには、なんらかの形にしなければならない。そんなことは藤原定家の頃から当たり前の話であった。だからといって歌の形をした言葉と、罵倒、侮蔑の垂れ流しの言葉に何か違いがあるわけではない。

 

誰も、どんな対応が正しかったのか知らないはずだ。仕方がないね、と恐らく誰かが口にしたはずである。この国の人の美点は妥協点を見いだすのが恐ろしく早い点にある。そして落ち着く場所が決まると、それを笠に着て横柄な態度を取る人がわんさかと生まれるのもこの国の特徴であろう。

 

本音も建て前もバレバレであるのに恥ずかしげもなく自分の主張を押し通そうとする人もいる。見せしめだからそうでなくては困る。そういう人が出世するのも世の常である。自分の経験を積み上げては判断を磨く。そういう人もいれば、原理、理念を出発点に、判断を磨く人もいる。どちらが正しいかでも強いでもない。

 

どちらも老化などによって簡単に害悪に落ち込む。社会の通念が変われば、害悪にも善良にも変わる。経済活動に組み込まれれば、正義は数字に置き換わる。

 

この事件は起きた事よりも、それをとりまく様々な人の意見表明、名古屋市長と県知事を始めとする、に特徴があったような気がする。ひとつひとつを見れば、どれも一理あるし、何等かの本質的を突いている。国家とは何か、言論とは何か、表現とは何か、自由とは何か、経済とは何か、そういう様々な思惑と関係が絡み合って、だれもが問題の全体像が描けていない、誰もが一側面でしか語れていないという点が非常に特徴的である。

 

つまり、我々は本当は何が起きたのか、誰も知らないという事なのである。そこにまた間抜けがのこのこと参加しにきた、そういう話しである。