滝沢カレン 「ソクラテスのため息」に出演 自分が毎年生まれる

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  小さい頃、昆虫は友達だった。でも次第に、関係は悪化した。「昔はなんで、あんなにアリと仲良くなれたんだろう?」。振り返り、考えこむまなざしはいたって真剣。「友達だったけど、(体の形で)丸が三つくっついてるのが気持ち悪くなって。今はアリは嫌いです。虫が大嫌いです。虫には申し訳ないけど、一方的に絶交させ 

 

いま学びたいのは人体。とくに脳には昔から興味がある。「この人の脳はどうなっているのかとか、リンゴやバナナが脳の中に入っているわけじゃないのに、なんでリンゴやバナナの事を思い描けるんだろうとか、よく考える」 

 

滝沢カレンの言語センスというのは標準から外れていて、その外れ方がよい。それはベーシック国語(NHK高校講座)の授業で金田一秀穂を泣かせてしまうくらいのパワーがある。

 

彼女の言葉は、あだ名でも圧倒(有吉を除く)しており、嵐松本を「俺松本潤」と呼んだり二宮を「趣味在宅」など、視点がユニークというよりも深みを感じるのである。

 

だから彼女の秘密というのを暴いてみたいという考え方は成り立つだろう。

 

所が新聞記事というものはそれを書いた記者の腕も絡まるのでこんがらである。この記事を書いたのは定塚遼という人で、リズム、テンポがよく、導入からぐいぐいと読ませる力量がある。最初、滝沢カレンが書いた文章かと勘違いしたくらいだ。その最初の文「小さい頃、昆虫は友達だった」に感動したなんて間違っても書かない。

 

彼女の特徴は、視点がくるくる切り替わる所かなとも思う。ひとつの文章の中で視点が切り替わる。極めて映像的。これは主語が固定しない日本語だから生まれた技法ではないか。

 

例えば

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ハツは名前からしてかなり見たくなるが、彼女にはコンプレックスもあった。

 

「かなり見たくなるが」は作者の視点、気持ち。読者の感覚でさえない。その後に続く「コンプレックスを持つ」のは作中の人物、客観的な描写。最初、見たくなるの意味が分からなかった。ハツという名前の女の子がいたら、どんな子が見たくなるよね、という共感ではないか、と解釈した。

 

作者の気持ちなんか、知らねぇよと受験生みたいな感想を持ったが、小説の中にいきなり作者本人が登場しても悪い訳ではない。漫画なら手塚治虫が登場するようなものだが、あれは本人ではない。作者の顔をしたキャラクターだ。しかし、ここに登場したのは本人そのものである、そこに凄みを感じた。

 

彼女はおそらく基礎学力は足りない。圧倒的に現在勉強をしている状況だと思う。だから、多くの人が通り過ぎたものを拾い集めるような所がある。そして、野辺の落ちている石から、宇宙の謎まで一気に駆け上がるような視点を持つ場合がある。だから勉強してゆくと彼女の面白みは消えてしまうのではないか、と余計な危惧までしてしまう、ほんと大きなお世話。

 

リンゴやバナナが頭の中にあるわけではないのに、なぜ思い浮かべる事ができるのかという問い。リンゴという存在は自分が認識する。この認識は私的なものだから、他の人が同じリンゴを意味しているかは確実とは言えない。

 

青いリンゴしかない地域の人はリンゴと言えば青を思い浮かべるはず。つまり、リンゴの本質に赤はない。他我という概念を引けば、認識について、カント、デカルトハイデッガーウィトゲンシュタインという様々な哲学者に通ずる。物の本質を引けば、ライプニッツモナドラッセルなどに通ずる。

 

でも、なぜ脳の中にリンゴがあればリンゴだと認識できるのか。それも不思議ではないか。脳の中にリンゴがない、自分の外にあるのにそれをリンゴと認識する事は確かに不思議である。だれがリンゴと決めたのか。もし、私の頭の中にリンゴがあるなら、そりゃ確かにそれはリングだよねと見比べて決める事ができる。でも頭の中になければリンゴと分かる訳がない。脳はぶよぶよした固まりで、幾ら切り刻んで探してもリンゴがきっと見つからない、解剖した事はないけど。

 

だけど、本当に自分の頭の中にリンゴがあれば、それをリンゴだと認識できるのか。誰が人間の中にリンゴを入れたのかは問わないとしても、あるから認識できる、というのは本当か。

 

認識とは比較と同じだから、比較して同じか違うかが決まればいい。リンゴならリンゴの見本が頭の中にあればいい。本当にそうか。

 

頭の中にリンゴがあっても、誰かが見比べなくてはいけない。リンゴが脳の中に存在する事と、それを外にあるリンゴとを比較して、確かにこれはリンゴであると認識するのは違う部位かも知れない。

 

もし、みんなの頭の中にリンゴがあるとしたら、全員のリンゴが絶対に同じとどうして言えるのか、もし違っているなら同じリンゴはどこにもないかも知れない。

 

どこかに本当のリンゴというものが存在するなら、それは人間の外にひとつだけ存在するはずだろう。ふたつあって全く同じとは考えにくいもの。

 

リンゴは人間と同じではない。だって人間は食べられないし、形は違うし、木の上で実る事もない。だからリンゴは人間ではない。

 

自分でないもの思い浮かべる事が不思議なのは、自分を思い浮かべる事は不思議ではないという事になる。なぜなら、自分さえ思い浮かべられないなら、それ以外を思い浮かべるのはもっと無理に決まっている。すると最初からリンゴだのバナナという話にはならない。はず。

 

ここで筈としか言えないのは、滝沢カレンが凄い所で、彼女の繰り広げる世界観はそういう想定を平気で、ある時には土足か、裸のまま踏みにじる場合があるからである。

 

蟻が嫌いです。理由は体がみっつあるから。なぜみっつだと気持ち悪いのか。多足類なら問題ないのか。決してそんなことはないだろう。ならば、自分と違うものが気持ち悪くなるまで半歩もいらない気もする。彼女の絶妙のバランスが実は強固な常識によって支えられている。この確かさに立ち返る事ができる。