前田容疑者「改ざん意味ない」故意否定

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官僚組織だから、関係した人は全て、サイン、判子をしているはずである。つまり、それが当事者の所在である(責任者ではない事に注意)。だから大臣も含めて、関係する人の名前は全て公開すればよい、となる。

 

その上で何人かが首を括って、事件は手打ちとすればよい、いつも問題の解決法は日本らしくやるのがいい。そして、全ては闇に戻され、また日常に戻す。

 

この事件は例え死人に鞭打ってでも解明すべきであるし、彼らが担当した全ての事件は過去にさかのぼり、全てやり直すべきである。それが司法の原則である。それにかかるコストをだれに課すか、その罰則は各国家の理念に依存する。

 

裁判所は、彼らの持ち込んだ全ての事件について無罪を宣告しなおす。そしてこれからも彼らが持ち込む全ての事件も無条件で無罪に処す。信用を失うとはそういう意味だ。検察が変わったと認められない限り、裁判官にこれ以外の判決はありえない。

 

人間が人間を裁くのが仕事だから、失敗やミスはある。勘違いも判断誤りもある。間違いもある。その結果、冤罪や最悪の場合は無実の人を死刑執行する事もある。

 

であれば、裁判官であれ、検察であれ、警察であれ、誤った判断をしたからといって
これを罰則する事は、人間の責任を超えている。決して間違ってはいけないものは人間には託せない。

 

これが、この事件の難しい所である。であれば、違法捜査というものが明確に決められるべきであるし(勿論決まっている!)、裁判であっても明確な基準が用意されていなければならない。

 

それが通常は裁判官の個人的な訓練や学習によって決まる。もちろん、裁判官AとBで大きく判決が変わるようでは困る。それは自分勝手であるからだ。時に買収の可能性さえある。忖度も考えられる。

 

しかし憲法が保障する通り、裁判官は己の良心にのみ従う。良心とは自分の人生で培った生き方に従うという意味だ。大樹に依るのが良心ならそれを咎めない。

 

裁判は基本的には、ロジックであるから原理的には、人を裁くと言う行為は、コンピュータで代替え可能である。情状酌量さえコンピュータで数値化が可能である。


証拠はこれだけある、それはこの程度の妥当性だ、信頼度はどの程度であると言うのが数値化できる。そこに矛盾があるかどうかは、人間よりもコンピュータの方が正しく判定できる。コンピュータは矛盾があれば確実に例外を起こせるからである。

 

その意味ではコンピュータの判決の方が人間よりも信頼できるはずである。いつも同じ基準で判決をする。それを数値化によって判断の理由が明らかにできる。

 

では、何故、裁判官をコンピュータにしないのか。もしロジックに誤りがあっても、コンピュータは100回とも同じ判断をする。そして101回目も同じ判断をするだろう。過去の判例から判決を求めるだけならそうなる。

 

しかし、人間ならば101回目にそれに気付く可能性がある。社会の変化をフィードバックできるからだ。この可能性の一点を条件とする事により、コンピュータは補助機能にはなりえても、人間の代替えに難しそうであると結論される。