香港高裁、周庭氏の保釈認めず「警察本部の包囲は重大」

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司法は法に基づいて判断を下す。その原理はこうだ。人間が人間を正しく裁く事は原理的に不可能だ。よってその裁く行為の根底にはもっと古い何かが正統性となるものがある。例えばライオンは群れの雄が変われば子供を殺す、熊は子連れと出会うと子殺しを行う。ミツバチの雄は用済みになれば巣から追い出される。これらのいずれもが自然の原理に基づく LAW & ORDER であろう。

 

どのような国家でも裁判の公平性が重要で、ここの不満が蓄積すればそのソサエティは崩壊する。多くの革命が警察官とのトラブルに端を発し起きているのはその証拠だ。もっと強力な秘密警察などが存在する場合は、不満の爆発は一方通行である。取り締まりをした者たちはよくて汚名を歴史を残し悪ければ生きたまま裁かれる運命にある。

 

不満を持たれない為に必要なのは公平性であって、それを担保するために法が導入されたと考える。その発明は遅くとも紀元前21世紀のウルナンム法典には見られる。ここで重要な事は、公平性の担保は、前もっと知らしめる点にある。この点だけが真理で呼べるもので、現在の法にまで続く原理原則になっている。法の不遡及はこの点から簡単に導ける。

 

逆に言えば、多くの歴史上の裁判官の判決はこの原理の則ったものである。黒人奴隷を使用する事の正統性も、差別する隔離政策も、女性参政権の禁止も、日本人の強制収容所の必要性も、この原理から逸脱したものではない。ならば、どのような悪法であれ、裁判官はそれに抗えないのか。その通りである。裁判官は法を超える事はできない。

 

だから憲法には罰則も道徳も記述されてはならない。人々はこうしなければならないと書いてはいけない。そう書けば固定化されて何も変えられなくなる。憲法にはだから理念だけを記述する。理念が時代ともに変遷するからである。そして裁判官は、その時代の理念に則り判決を決断する事ができる。

 

香港の裁判官だってこの原理原則から逸脱してはいないのである。丁寧に法を読み、判断を下す。もちろん、その根拠には中国の憲法がある。その理想、理念に基づき、時代の変遷に応じて読み込んでいるはずである。中国が目指すものは何か、中国の理想とする姿は何であるか。もちろん、10億以上の人が住んでいる。それぞれに思う事は異なるだろう。

 

中国は、巨大な共産党という権力の闘争集団力学が支配する国家である。そして極めて強く一人の指導者の考えに深く影響される。そして、古来から50年、100年の長期的視点でものを語る事ができる人々の国家である。悠久はだてではない。自分が死んだ後に今日の一手が有効になればいい、それくらいに思っている人たちの国家である。

 

現在の中国が行っている事は、急激な経済的成功に伴う自信や慢心から逃れられない。明治期の日本人がアジアを見下したのはその良い好例になっているはずである。そして一帯一路というインド包囲網、ヨーロッパの近くまで影響範囲を確保し、アフリカに誰よりも早く橋頭保を築く。

 

もちろん、その過程で多くの不信を植え付けているのは間違いない。彼らの経済投資と不信の大きさは恐らく比例する。しかし、その国民からして上に政策があれば、下に対策あり、と言わしめる独特の国家観を侮ってはいけない。恐らく、自主自立に逞しい人たちなのである。

 

そして、その流れにあって、少なくとも香港において民主主義をこれ以上語るのは難しい。それは終わったと考えるべきである。西洋型の民主主義をあの地で追求するのはもう無理である。もしそれを追求するなら、中国が許容する民主主義をまず学ぶべきだ。その上でそれに満足できないなら他の国に向かうしかない。もちろん、台湾だって、そう一枚岩ではない。少なくともアメリカの後ろ盾がなければ成立しない国家である。銀河英雄伝説を読むものは民主主義を学ぶと同時に、如何に台湾が危ういかを思わずにはいられないのである。

 

戦前の日本ならともかく、現在の日本に台湾の独立を支援する戦略も戦術も理念もない。そもそも日本は民主主義を理念とする国家ではない。もともと、敗戦に至りころっと方向を変えた民族である。現実へのあざとさと言えばそれまでだが、もしソビエトに支配されてもそれなりに生きたであろう。本当にアメリカに占領されて良かった。

 

そんな訳で日本を民主主義と見做すのは勝手だが、現在の老人たちを見れば分かるように、これといった理想があるわけではないのである。中国とアメリカの対立をビジネス環境としてリスクとしてしか考えられないのである。その背景にある政治的、理念的対峙が全く理解できない、どちらも仲良くしてほしい程度にしか考えられない民族なのである。

 

共産党員にならなければ中国大陸でビジネス出来ないと聞かされたら簡単に党員になるだろうし、民主主義に誓えとアメリカから言われたらなんの躊躇もない。キリストの神だろうが、ブッダであろうが、どんとこいな融通さかげんを裏返せば、その辺りにこれといった拘りが何もない、そんな所に真実などないと見抜いている民族性でもある。

 

道徳で飯が食えるか、それで飯が食えるなら、それはかなり怪しいという人生観に支えられている。神を信じるのは勝手だが、ほどほどにせいよ、それを簡単に言うなら、このメンタリティは、室町時代の豪族みたいなものなのである。利にさとく、状況に乗るのに最も重要なものは嗅覚であると開眼しているような所がある。

 

いずれにしろ、中国はいまツンデレで言えばツンであるし、この軍事的な恫喝が多くの周辺国にとっては不信の蓄積しかもたらさない。これを逆に言うなら、次の指導者になった時に、簡単に多くの信頼を獲得できる下地を作っている最中という話にもなる。不良が子犬に餌をやる理論である。

 

この落差の大きさが中国の外交方針に基づくかどうかは知らない。しかし、この落差はどこかのタイミングで必ず効いてくる。つまり本当の脅威は今とは言えない。少なくとも中国が20年後の世界を考えていないとは思えないわけである。

 

コンピュータを中心とした新しい時代について、中国が技術を引っ張る側に回っているのは確かな事だ。それを支えているものは資本の投入であるのは間違いないが、それだけが理由ではないはずで、中国の人たちの新しい世界を切り開いているという自覚、その面白さへの感覚は確かだと思う。21世紀の後半に世界がどう変わっているか。それを見る事が出来る者は幸いだ。