都知事、消防隊への圧力に抗議

東京都の石原慎太郎知事は21日午後、首相官邸菅直人首相と会い、政府関係者から東京消防庁ハイパーレスキュー隊に対して「速やかにやらなければ処分する」との発言があったとして抗議した。石原氏によると、首相は「陳謝します。大変申し訳ない」と述べた。都関係者は、発言は海江田万里経済産業相からあったとしている。 

 

まるで司馬遼太郎二百三高地を読んでる気がしてくる。

 

さて、情報には3つの情報がある。

  • 正しい情報
  • 正しくない情報
  • 分からない情報

 

この分からないという状況があると仮定しておけば、すべての情報は、

  • からし
  • 誤っているらしい
  • 判別できない

のどれかに区分できる。

 

だから、この話が確かならば、けしからんことだ、という主張は成立する。だが成立しているだけであって「けしからんこと」にも前提条件がある。

 

「もし彼女が俺の事を好きなら俺は何をしてもいい。だから俺は彼女に抱きついた。」
「彼女に抱きついたが彼女は怒らなかった。だから彼女は俺の事が好きだ。」

この話は本当だろうか。

 

さらに仮定が正しい事は、結論の正しさを保証しない。「けしからん」という結論が妥当であるかは、これまた3つに区分できる。

  • 同意する
  • 反対する
  • どちらと言えるかはわからない

の3つに。

 

情報は、接続詞が付くほど確かさは薄れてゆく。距離の二乗に反比例するのと同じだ。もちろん、この結論も本質的に3つに区分できる。

 

わからない、という仮定に立ち一つ一つの情報を確かてみる。ニュースソースは簡単に見つかる場合もあれば見つからない場合もあるだろう。

 

この情報氾濫の中で一つ一つを個人が確かめる事はできないので誰が言った言葉であるか、それを伝えたのは誰であるか、それでフィルターをかけるしかない。

 

だが「オオカミ少年の言葉は全てウソである」が間違っているように「正直者が言う事は全て正しい」でもない。

 

正直者は正直に語っているだけであり、彼が話した内容に誤りがないことを保証していないからだ。

 

分からないことを分かるようにするためには、科学的な手法か、信じる、信じないしかない。いずれにしろ、確からさの上に推論を加えてゆく事は危険であるが、それ以外の論を重ねる方法を人類は持たない。

 

常に僕たちは確からしさの上に論理を重ねている。だから、少しずつでも確からしさは疑う方がいい。今更、天動説を疑えとは言わないが。

 

人の言った、言わないの話は、言葉が何通りにでも解釈できる性質から、話の流れ、状況、勘違い、好き嫌いなど幾つもの要素が含まれる。それを丹念に第三者、当事者へとヒアリングしなければ話は分からない。いや、ヒアリングしても分からない。


お互いが相手の言葉を誤解する事はよくある話である。そういう点でこの記事は、僕には本当かどうか、分からない話だ。もしもこの記事が本当ならもっと詳細な検証は必要だろう。だが、この記事だけでいま何かを語るのは難しい。

 

この話が本当であろうが、嘘であろうが、けしからん話だ、という類であって、これは常に正しい。