銃を持って笑顔ってのは面白い。僕が見ているアメリカのドラマでは、銃の取り扱いはシビアだ。
容疑者がキッチンの戸棚を開けようとするだけで牽制する。おい、まてまて、そこを開けるんじゃないじゃないよ。開けたら撃っちゃうよ。
犯人を追いつめて背広の内側に手を入れたらダン。そのまま犯人は射殺。
拳銃の世界では相手より早く撃つ、と言う発想が自然と強力に生まれているようだ。撃たれたら終わり、二発目はない。銀河鉄道999でも鉄郎に云ってたね。撃たれる前に撃て、って。
この感覚は最初は良くわからなかった。これは多分、日本は刀の文化だったからじゃないか、というのが今回のお話の骨格。
僕らが知るチャンバラや幕末ロマンは、銃よりも刀が主流の武器だ。多勢に無勢は銃でも刀でもありうるシチュエーションだが、そんな場面で敵に見得を切るってのはガンマンでは通用しそうにない。
剣なら居合抜きや抜刀術というものがあって、相手に先に切らせてもこれをいなして切り返す。って技が通用する。切り掛かってから切るまでの時間が長いから可能なのだ。刀にはそういう余裕がある。後の先が奥義となるのはこれが理由だ。
一方で銃はトリガーに指を掛けてから撃って弾が到達するまでの時間が短い。人間の動体視力や反射神経では音を聞いた後に動いても遅い。植芝盛平もいつ撃つか分からない奴の銃は避けれないと語っている。
日本でも織田信長の時代、幕末、日清、日露、日米と銃で戦った。それなのに僕たちは銃についてよく知らない。刀ならなんとなく感覚として分かる、そういう素地を持っている。
例えば、武道には礼があるが、この礼を米人や仏人がするのを見てもどうも違和感がある、何が違うんだろうと感じる。思うに日本人の礼は、お互いが頭を下げるだけの仕草ではない。
囲碁であれ、将棋であれ、柔道、剣道、レスリング、等々、礼に始まり、礼に終わる競技には全て、頭を下げるだけの礼儀ではない。あれは頭を下げているのではない。首を差し出しているのだ。
昔の武士が切腹の時に、頭を差し出す。これは首を切ってもらいやすいようにしているのだけれど、これと全く同じ所作が礼という行為なのである。
互いに礼、というのは競技者がまずは互いに首を差し出すという事だ。これは、誰に対しての礼か、というのではない。これは互いに首を差し出しているのだ。
もし、私の行為に不正を見つけたのなら、いつでもどうぞ、私の首をお跳ね下さい、そういう意思表示を互いにしてから両者の戦いに挑む。戦いが終わった時にも首を差し出す、もし不正があったなら今、切って下さい。
これは立会人に対してもそうであるし、互いの競技者に対してもそういう意味を持ってるのである。言葉にするまでもない。一礼をもって互いの心構えを宣言している。
こういう所作は刀だから生まれたものだろう。首を切るために私の首を差し出すという所作は、恐らく銃なら違う所作になるはずだ。そう空想したりする。
銃の世界でも銃の世界での美意識があるはずだ。だが、刀と違って銃はまだ発展の途上にあり、その暴力性は日々圧倒的になりつつある。そういう機構の前で美意識というものが耐えられるものだろうか。
日本人は銃というものを良く知らない。だから銃を構えてにっこりという構図が通用するわけで、この構図にどのようなリアリティもありはしない。銃を構えて笑うのは通常はサイコパスと決まっているのだが、日本のドラマだと可愛いに取って代わる。
銃による悲劇が途絶えない世界で、これが平和への道を意図したりしているんだろうか。そんな訳もない。記事にもある通りこれはコメディエンヌだからだ。つまりコミックなのである。
コミックの扉絵としては銃を構えて笑顔をしていてもなんら不思議はない。可愛い女性とリアルに描かれた拳銃の組み合わせはいいテーマであろう。その背景にどんな物語も必要としていない。この国ではそういう空想が通用するのだ。
その漫画でやってることを実写にしてみた。すると流石に実写だけあって、若干リアリティのハードルが上がる。そこに変な現実感があると作品世界が崩れるから、何も考えていない表情で押し切る。日本の警察だったらそれだけで始末書だと思うが、銃よりも他にいいアイテムが見つからなかったのだろう。
仕方ない、これが日本のテレビドラマだ。別にリアリティのある警察を描きたい訳じゃない。解決する事件だって十分にドラマなのだし、解決だって下手したらどうでもいいのである。
現実とドラマの違いくらいは、頭を瞬間に切り替えなくっちゃ、仕方ない。なんだか眉毛がこゆいんだもの、ああ仕方ない。だって可愛いんだもの、もう仕方ない。