「ろくでなし子さんに靴下を差し入れようとしたけれど」

www.bengo4.com

 

表現の自由の問題で逮捕者が出た時に、どうも不思議な事がある。それは彼らの戦い方である。表現の自由を主張する前に、これを逮捕した以上、それを支持した裁判官がいる。どこの誰であるか、その名前も公表されない。

 

告訴したのは誰なのか。それを受けて警察、検察の誰が、担当しているのか。それを知る事は、もちろん、そういう人たちを周りから責めて、無罪を勝ち取るための戦略ではない。行政は、常に自分の行為に対して弁明する義務がある。それをレスポンシビリティと呼ぶのだし、それを聞くためにマスコミがいる。

 

裁判官は第七十六条で「すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される」とされる。周りが何と言おうとただ自分の判断に信念を持たなければならない。

 

故に。公人は社会に対して自分の考えを述べる必要がある。それが法廷における判決文だけで十分とはならない。逮捕状を出した事について、検察からの要請に許可を与えた点についても説明しなければならない。

 

もちろん、それは問い質された時で十分であろう。聞かれたら答える。聞かれたら必ず説明する。これが原則であるから、マスコミの存在は重要なのである。

 

しかし誰が問いただしたであろうか。誰が裁判官の名前を知っているだろうか。反対運動を展開する相手の顔さえ知らない。それで平然とできるものか?

 

そして差し入れがどうのこうの。現場では自殺や脱獄に使われるようなものは全て排除されて当たり前ではないか。我々から見て不自然でも、彼らには彼らなりの運用に当たっての注意点があるわけだ。長年の蓄積量が違う。

 

こうしておかしな人を制裁し、それに続く人の道を閉じようとする。社会はこうして安定するのだろう。だが、それは衰退という名の安定ではないか。

 

裁判官は、日々の仕事に追われ、理念も社会の流れも忘却する。目の前の書類を、粛々と処理しなければならない。そうして司法はなんとか滞りなく動き続けている。マスコミの相手をするような暇がない程の忙しさなんだろう。

 

彼らの仕事は時間があれば答えが得られるような問題ばかりではない。そこに時間的制約が課せられる。