日立、国際化へ脱「年功制」 海外から幹部人材確保へ

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能力評価に興味を示さない経営陣は無知であろう。能力評価の危険性に鈍感なのは無能であろう。富士通が長い停滞期に落ち込んだのは、成果主義の導入が原因であると聞く。同じ轍を踏まなければよいが。

 

年功制とは社員の単年度当たりの評価をしない事である。それは企業から見たら将来への投資である。長期的な視点での評価である。その変わり、安い給料の見返りは、解雇をしない、定年制を維持する、低いながらも昇級するなどがある。

 

これが社員に対して安心感を与える。また一生を捧げる理由になる。それはモラルを高め、会社への奉仕精神を醸成する。それは共同体としての企業風土を形成する。日本企業の強みは、この団結力、集団力にあった。

 

これまでの社員は少々の会社の無理には従った。不平不満を抱えながらも信頼性で答えてきた。即ち「日立のために」。この言葉が持つ強みが企業を支えてきた。

 

これは何も奴隷だからでも、愛社精神があるからでもない。これは一生を土着する環境に対して、自らの住環境を改善しようと本能的な働きに過ぎない。定年制とは土着の事である。

 

さて、制度を変えるのは、企業の土台を根本から揺るがす場合もある。外壁を講じするつもりで、大黒柱を切り倒すのはよくある話だ。もし、社員のやる気に価値を認めるなら、奪い去ったものの代価を払う必要がある。能力評価でそういう点まで考課されたものは少ない。

 

行動原理の策定によっては、評価期間が短縮され(何度単位など)、企業全体が短期的な利益の追求にシフトする。評価が頻発し継続されてゆくため、自分の評価を小出しにする傾向が起きる。従来なら時間が空いたから先のことまでやろうというイニシアチブが、抑制される。ここまでやったから、この先は次の考課のために留めておこう。


評価に関係しないのなら、する必要はない。それがこれまで業務を円滑にするめる肝であったとしてもこれからは必要ない。社員の行動の全ては評価ベースで行われる。これは社員のモチベーションや行動原理が評価にカスタマイズされるに等しい。

 

新しい評価によっては「日立のために」が期待できなくなる。これは社員よりも経営者にとって恐ろしい話だ。この怖さが分からないなら、頭が悪い。

 

献身、忠義は、中世武士を支えた行動原理のひとつである。この力によってなし遂げられたものも多い。それと比べると、成果主義は、対価とのバランスが最重要である。極端にいえば傭兵である。金を払っている限りは決して裏切らない、この強みも重要だが、その覚悟ができているか、という話だ。

 

だが、成果主義の利点を知り、それが有効に機能する企業風土を作り変えるのはそう簡単ではない。

  1. 短期的な利益を重視すること。
  2. 低い成果の人をレイオフ、移動できること 。
  3. 高い成果の人が異なる企業に移る事を前提とすること。
  4. 業務も契約なので、命令、依頼は内容を厳密にすること。

 

成果主義は新鮮で優秀な人材を常に求め、外部から取り込み、短期間の成果評価により、入れ替わりを推奨する事である。使える間は、重宝するが、切るのも、相手から切られるのも自在という仕組みである。計画には誰かの存在を想定しない仕組みである。

 

成果主義を取り入れる企業には、野心があり自信のある人間が集まる。よって雇用する方も雇用される側も常に次のステップを求める。次のチャンスを伺うための仮の場所と常に認識する。プロジェクトは常に人が流動しても構わない仕組みを用意しておく必要がある。

 

ある日、誰かが辞めても困らない仕組みを用意しておく。その利点は、人の流動性によって適材適所を取りやすいという点にある。そして、企業が社会から短期評価を求められている環境にある場合に有効だろう。

 

当然であるが、人材の流動が激しいということは、そのまま企業の流動も激しいという事である。条件があれば、どこかに売るのも、状況が悪くなれば廃業するのも想定内である。企業文化であるとか、伝統というようなものに価値を置かない。恐らく社長も含めて、最期までそこに残る人は少ない。企業を永続させたいという考えにも向かない。

 

そのような企業は誰のものか。株主は当然であるが、流動性の良さが、新しい何かを生み出すという期待がある。人と人とが激しく反応しあえる利点がある。

 

だからそういう企業が合っている人もいれば、時期もある。明日の自分を自分でコーディネートしたい人には魅力的だろう。逆に、そういうのが好きでない人、年を取ったり家族をもって、そういう働き方から引きたい人にも合わないだろう。基本的には若い人が野心をもって働くような場所だ。

 

日立の今後はどうなるのだろう。個人の行動原理が成果主義に移る以上、有能な社員は、そこに居ながら、次のステップを考えるだろう。そのため、日立のような大企業であっても、引き抜きは頻繁に起きるはずだ。また、今までは、「日立のために」「日立が好きだから」という理由で働いてきた人との折り合いは、どこかで破綻する。

 

優秀な人材であれば、日立を好きになる必要はない、という考えがどういう人材を

集めるかはやってみないと分からない。企業への貢献が、自分への貢献と同じベクトルであった所から、自分の利益を最大化するベクトルへと変わる。

 

企業の利益と自分の利益が相反するときに、義理と人情によって悩むような人材は欲しない、躊躇なく自分の利益を追求してほしい、そういう人事考課が始まるという事だ。自分の評価を高めるためなら、企業が不利益になっても良い。それが合理的だ。

 

日立は恐らく地域性の高い企業に見える。一つの町がまるまるひとつの企業で成り立っているような部分がある。この地域に根差した企業風土が、この先、どう変わってゆくのか。

 

人材を評価するのは難しい。従来は年功序列の中で評価を形成してきた。それは人間力というようなものが重要で、人間を見る力、状況を考慮した判断が求められてきた。逆に言えば上司の気持ち一つでよい評価も悪い評価も出来てしまう欠点を持つ。かばん持ちが出世する悪弊が存在した。

 

成果主義にそういう側面はない(あってはならない)。成果に関する評価は公正で平等でなければならない。そうでないなら、評価そのものに能力的欠如があると言わざる得ない。成果主義で考課に問題があるなら、誰が支持するだろう。

 

成果主義は、人を評価することで成立する。流動する人材を短期間に評価しなければならない。逆に言えば、短期間で評価するならその人の成果以外は使えないという意味でもある。それ以外で評価するのは難しい。誰かの能力が短期間で把握できると考えるのは愚かだろう。

 

それを愚かにしたくなければ、すでに能力評価の定まった人を取り込むしかない。それにはハンティングするしかない。そして成果主義ならば、これも可能だ。企業風土も、企業の伝統も関係なく人材を評価できる。誰かの人間を見る目に頼る必要などない。

 

これまでは失敗してもそれを救う仕組みがあったはずだ。社内でリベンジする機会が用意されていた。それが企業の風土であり、上司たつ者の文化であった。成果主義はそういうものを駆逐する。恐らく数値化したものを人間が判断する。AIなら数値からも何かを見出せるだろうが、人間では無理だろう。10年後のために今日の失敗を糧とする、目を瞑る、そういうものは失われてゆく。

 

どのような評価システムも、何を重視するかによって決まるものだ。その方法にも欠点も利点もある。本当に正しい評価などというものはない。

 

Inspire the Next 、明日への息吹。神は息吹によって人に命を与えた。だが楽園から追放されたために、土くれに変える存在になる。人材の取り扱い方ひとつで、企業もどう変わってゆくか分からない。加えて激しい社会変化がある。これほどのグローバル企業が、洗濯機から原子炉まで作るこの企業が、この先でどうなってゆくか。

 

さて、明日の新しい日立は、果たして。