「マスコミは死刑の現場に立ち会ってほしい」日弁連委員会の弁護士が「死刑取材」要望

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遠島が刑罰から失われたのは、交通手段の発達、情報流通の高度化が大きく関係しているだろう。オーストラリアが今や囚人の流刑地でないのも同様である。

 

刑罰は社会的、文化的、思想的な影響を受けて決まる。しかし、未だ罰則をすべて廃止せよという意見は聞かない。無法ではないとは罰則がある事と認識されているようである。

 

さて、死刑のない国で凶悪犯罪が起きた場合、人々はどうやって治安の回復を実感するのか。一般的にはその当人を殺すのがもっとも安全である。殺せばもうそれ以上先はないのだから当然である。

 

殺してさえしておけば再犯は絶対に置きない。生かしておくから再犯の可能性に注意しておかないといけなくなる。怨霊や幽霊の存在が証明されない限りは、これ程の安全策はない。

 

仮に罰則を緩めれば抑止効果は失われるだろう。人は自ら律すると規定する訳にはいかない。そのような前提は間違いと考えるのが妥当である。

 

しかし罰則は常に後追いであるから、起きた事象に対するカウンターとしては常に起きた以上のものを与えないとバランスが取れない。

 

ここで一番重要なのは、罪とは何かが起きる前から既に存在しているという考えである。

 

原罪という概念は生まれながらに罪深いというものであるが、では何が罪なのか。生まれながらにして既に起きた罪に対してどういう罰が同等と言えるだろうか。

 

キリスト教の原罪は、リンゴ食べた罪と言うが、そのくせ赤ん坊は無垢であるとか言うので更にややこしい。

 

罪を消すのには罰を受けるのがひとつの構図である。これが全ての形式ではない。罰せられても罪が消えない場合もあるだろう。

 

キリスト教の原罪は、まだ罰を受けていないだけとも言えるか。キリストが我々の代わりに罰を受けた、もしそうならば、どの時点で罰によって罪が消えるのか。黙示録の審判の時か、キリストの復活の時か、はてさて。

 

しかし、死んでしまえば何もかもが消えるという考え方がある。死人を罰しても無意味である。これは経験則である。だから死に至るまでの過程こそが罰である。

 

そう考えるなら、生きている以上、罪人であるという考えも合理的である。

 

憎しみが強すぎると、殺した上で、更にミンチにする場合もあるし、それでも気が納まらなければその家族や隣人にまで及ぶ事になる。それでも死人に鞭打つのは基本的にむなしいというのが人類の経験である。

 

罰は取り決めである。取り決めである以上、そこで取り決められたから罪と呼ぶのは間違えている。取り決めに違反したから罰する、罪を犯したからではない。

 

では、なぜ罰するか。

  • 他に対する見せしめ(治安の安定)
  • 再犯の防止(不利益の授与)
  • 被害者の復讐、仇討の防止(代理的執行)

 

被害者の心理的負担を解放するための罰則が基本と思える。そこには安寧でいたいという気持ちがある。

 

それが罰の背景にあるとすれば、死刑が本当に極刑と呼べるのであろうか。死んでしまえばそこで終わりなのだから、こんな手ぬるい刑罰もないのである。生かして、一か月でも一年でも10年でも苦しみ続けさせる方が、余程罰則としては望ましいのではないか。

 

機械で体を締め上げた上で、全員がその存在を忘れる、そういう形で何年も苦しめる事は死刑よりも軽い刑罰とは到底思えない。

 

人間を発狂させずに自殺も許さず苦しみ続けさせる事は可能であろう。そのコストがどれくらいかは知らないが、我々の社会は、そんな事にいつまでも構ってはいられないのである。

 

確実に世の中には死刑にすべき存在はいる。この大前提を失って議論は成立しえない。そういう人々に対して死刑を廃絶したらどういうカウンターを用意するのか。人道や更生の可能性という話をしている訳ではないのである。

 

もし死刑相当の罰則者が釈放され再犯を犯した時、これらの弁護士は共犯として処罰してよいか、というのが大前提にある。

 

一度だけなら被害者に泣いてもらう事も可能であろう。だが二度目となれば社会がこれを許さない。死刑を廃絶しました、刑務所で安息の日々を過ごしていますで許せるのかという話でもある。それでは罰としては軽すぎるではないか。

 

目には目をとは、自分が受けた被害以上のものを要求してならないと戒めているのだが、だからといって、1受けて10返すのも無茶なら、10受けて1しか返さないものを無茶である。

 

年金が崩壊し、生活保護も破綻間近である現在、刑務所が最後の社会保障となるのは間違いない。それは既に時間の問題であって、刑務所が社会保障制度の一翼を担うなら、少なくとも死刑を取り扱う機構として刑務所は相応しくない。更生施設と罰則施設は分離すべきだろう。

 

ではどういう代替案があるか、弁護士たちに深い考えはない。彼らの発想の根っこにあるのは、自分たちの仕事をやりやすくしたいだけであろう。それが社会正義か。

 

なお冤罪の話は割愛した。主に再犯を主題とした。