日本は移民政策が必要、労働力確保で中国に負ける可能性=河野担当相

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河野太郎という人は、人はいいんだけど、無能の代表のような所があって、その言動には注目できない。

 

ここで彼は移民という言葉を使っているが、これが200年前ならば、何の迷いもなく「奴隷」と呼ぶものであって、彼が民を欲しているのではないことは明白である。

 

人が減る。国力が足りない。だから奴隷を狩ってこい。これが現在の移民の流れであり、そうなると、移民した人々が二等国民扱いされるのは間違いなく、どこの戦前の朝鮮半島の人々だよ、という話になる。

 

結局、戦前回帰を目指している人たちの思想の根底には、敗れ去ったもの、それはないんじゃないか、というようなものへの憧憬があって、誘蛾灯に吸い寄せられるように回帰しようとしている。

 

これが心性の底に潜む劣等感であったり、将来への不安だったりする感情から始まっているのだとしたら、たちが悪い。不安と向き合って解決するのではなく、不安から遠ざかる事で解決しようとしているからだ。

 

特に21世紀は恐ろしくコンピュータが発展する。ドローンもそうだが、機械が人間の雇用を奪う恐れが現実になろうとしている時に、なぜ生きた移民が必要となるのか。

 

もちろん、サイド7への宇宙移民であるならば、別考の余地はある。

 

例えば、移民ではなく、海外労働者の流入というのであれば、これは別の考えとしてありうる。足りない労働者を日本国外から招きましょう、というのは、別に今に始まった考えではない。

 

遠く、多くの人々が飛鳥の地を訪れた。朝鮮半島や中国大陸からきて、そのまま日本に住み着いた人は幾らでもいる。

 

豊臣の進軍により、無理やり連れてこられた朝鮮半島の人々もいる。それは明治以降の併合でもそうだろう。

 

のみならず、労働市場を求めてアメリカ、ハワイやブラジルに渡った日本人も多い。これらは移民として行ったのであるが、もちろん、その地では差別や偏見と戦わなければならなかった。1世紀前の話である。

 

太古、何万年も前から、人々は流動していた。ヨーロッパの地に辿り着く前に、アフリカを出た人々はアジアの地まで来ていた。アメリカの地にも渡っていた。人間の流入は避けられない。

 

この数百年、人間の頻繁な行き来がこの国では起きなかった。それは狭くとも山岳系の険しい地形と四方を海に囲まれたという地理的条件による。

 

日本において、それ故に、海外からの人々の流入は長く少なかったが、逆にそれが国内におけるいわば多民族的な形成を生じた。それが徳川時代の藩という存在である。

 

当時の藩ごとの違いや文化の独自性は今も県民性として残っているが、これは多民族と殆ど同様の違いを形成している。しかも、多民族よりも緩やかであるから、それを理由に対立することは少ない。

 

とすると国境の概念が厳密になるにつれ、移民という考えも強くなってきたと思われる。これは近代国家の成立と無関係なはずがなく、結局、線を引けば、そこに違いが生じる。違いが生まれれば、そこに差が見出される。何もなくてもそこに差を見つける事は出来るのである。差はあれば順位化できる、この順位化が差別の温床であろう。

 

つまり、移民政策の最大の懸案事項は差別の発生であり、差別は永続化する。この現象から逃れられる者はひとりもいない。この国では永住許可者の問題さえ解決できないでいる。

 

そのような所に新しく火種を入れる理由が、余りにも短絡的なのである。つまり奴隷だと思っているから、考えが足りなくても構わないというのが、考えの基盤としてある事が明白なのである。

 

だいたい多民族化への移行は、行革程度の大臣に負えるような問題ではないのである。だいいち、中国で介護労働者が深刻な問題になるなら、それは莫大なビジネスチャンスがある。それに向かってロボット開発、人間的な最期の迎え方の研究など、幾らでも出来る事がある。

 

この程度の大臣を抱えて日本はお先真っ暗が事の本質である。