改めて考えるマンガ家という職業と表現の自由。富田安紀子『日本が好きでなぜ悪い!-拝啓、『日之丸街宣女子』から思いを込めて-』

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あー、なんか騙された。もちろん、勝手読みして勝手に自爆した自分が悪いのだけれど。普通、タイトルってのは良く読まないじゃん。最初の数文字と字面からイメージするものじゃない?ネイティブ言語ってのは。

 

『日本が好きでなぜ悪い!-拝啓、『日之丸街宣女子』から思いを込めて-』

 

どう見ても(そりゃ勝手読みだけれども)、中国の日本好きな女子がアニメや漫画への思いのたけを訴えた本だって思うじゃない。後半なんて、9文字も漢字が連続しているんだし…

 

でも違った。単なるヘイト論争だった。こんなもの、立場が違えば論理はまるっと逆転する。左も右ももうあまり興味はない。こういうのは嫌韓論と同じ構図だ。

 

人の好きについて考えれば、それが身体の中から生まれるというより、周囲に対して、自分がどうありたいかから生じると思うようになってきた。周囲からどう見られたいか、どういう立場で周囲に中に溶け込みたいか。それで好きを既定する。

 

好きには理由がない、というのは確かにその通りで、その意味する所は、もし好きに理由があれば、その理由を失えば好きではなくなってしまう。もし失う事を拒否するなら理由をもって好きでいることはできない。つまり、深い所で同一化しておくしか、消失しないようにする手立てはない、という事になる。家族などはかなり強固な仕組みのひとつだ(※ 常に成立ではない)。

 

しかし、この論理から明らかなように、好きな理由を言葉にする事は難しくても、その人が好きなものを見れば、その人が環境の中でどういう自分を作りたいか、どういう個を得ようとしているか、が見えてくる。

 

つまり自分探しとは、自分の中ではなく、自分を規定する環境を探すという意味で、なるほど、あいつは今も孤独なのね、という事だけが分かってくる訳である。

 

さて、ヘイト論争も所詮は好き好きの話に過ぎない以上、それを規定するのは人間の中から生まれ出る激しいパッション、揺れるエモーション、飛び散るコンビクションではないのである。自分の周囲の中で、自分はどこに行きたいか、どうありたいか、どう見られたいか、という規定なのである。

 

ましてや人間には仲間を守ろうとする強い本能がある。両者の溝が埋まる事はない。お互いに守りたいものがあるもの同士が対立するなら、それはエスカレーションする事はあっても、リダクションする事は考えにくい。

 

当然であるが、終戦まじか頃に、ヒットラー暗殺を企てた集団は、反逆者として処刑されたし、ナチスが倒れれば、高官たちは地の果てまで追いかけられ、ハンギングされる。時代が変われば立場は変わる。多くに人々は、そういう時は黙って粛々と対応するものである。

 

そこに『言論の自由』を持ち出して自分の意見(たぶん現在は反社会的とみなされる)を言うのは、もう、度胸が据わっているか、どうしても表現したい何かがあるというか、本当に語りたい相手は世間ではない。まぁ名まえを売りたいという思いがあって、誰かに認められたいという突出した野望があるのだろうと思われる。

 

いずれにしろ、言論の自由に対する正義の暴走という考えは、正義を規定している時点で話が矛盾している。この世界で暴走してはならない正義とは何か。まず第一、正義と呼ぶものは暴走する。果たして、そのようなものが本当に正義であるのか、というジャスティスの論議が必要だ。

 

それは言論の自由を考える上で、寄って立つ場所ではない。言論において真っ向勝負する対立する二つの要素は、どのように相手の意見を封じ込めるかという戦術を展開する時点で、必要なのは言論の自由ではなく、マインカンプ的な勝敗に問題は置き換わっているのである。

 

もし相手を打ちのめしたければ、答えはナチスにある。脅し、害し、追い出せ。居場所をなくすのにこれほど簡単な方法はない。そして、脅しに言語を使う以上、言論の自由と脅しの境界線は難しい。中国の人と話していると怖い、怒っているように聞こえるのと全く同様の笑い話が出現する。

 

というわけで、論争のコツは、カオスで五里霧中な中に相手を引きずり込み、それから先に根を上げた方の負けという風に持ってゆくのが良作であって、論争に決着が付かない以上、お互いが疲れるのを待つしかない。

 

もちろん、多くのヘイトは、格差や貧困によって生み出されるものであるから、世界中の超右翼が若く貧困に置かれ希望を持てない層の支持を得ているようだし、一番の解決策は、等しく経済発展、貧困、格差の撲滅となるはずである。

 

もちろん、それで全てが解決するわけではないが、大きく改善するにはお金が一番というのはたぶん、間違いない。