【編集日誌】「根絶」の重要性とは

多様性を種の数と定義するなら、ふたつの種は1+1で2と考えられる。そのうつの一つが混雑した場合、多様性としてみれば、0.5に減じたと考えることができる。故に、純血種はふたつの混在だから、純血種の半分が失われ、もうひとつの部分と重なり合うと考えられる。

するとひとつのうちの半分が失われるから2から1.5へと多様性が損なわれたという考えは成立しているように見える。もちろん、ここではハイブリットすることでの新しく獲得した能力や利点、欠点などは無視する。たんにゲノム配列の不一致度に注目しているのだろう。これは亜種をどう見做すかという問題でもある。

生物の原則として、閉じられた環境に生息すると、その地域に特化した独自性を生み出すということがあるだろう。生物は環境要因に対して数年で対応した独自性を持つ。これはガラパゴスフィンチでもよく観測された結果だと思う。これが生物の多様化の根本であろう。つまり、多様化とは、多種な適用能力の事だと思う。

元来、生物は、広く地球上に拡大しようとする。しかし、地理的要因から、多くの生物は、土着するものである。ゴミ虫など広範囲に移動しない種では山ひとつ変わっただけでも違う形質だという。

もちろん、形態の違いは種の違いとは見做されないので、一度違った形態を得たものが再び会えば混在するのは自明である。それは人類においても同様であって、皮膚の色は、かつて、地域によって獲得された環境適用であったが、再び混在する状況が生まれている。

では黒人と白人の婚姻が許されて、なぜ野生生物のハーフは許されないか。なぜ野生動物だけは純潔を強いられるのか。もちろん、これはそれら生物の都合ではない。

本来、合うべきではない異なるグループが、人間によって移動したというのが、元来自然と呼べないのか、それとも、それも自然の成り行きなのか。もちろん、これを決定できるのは人間ではない。

彼らの力では移動できない距離を人間がやすやすと超えてしまった。おそらく何万年も前も犬であるとか、猫であるとか、羊であるとか、馬であるとか、牛であるとかは、そうやって広がってきているのである。なぜ家畜にはハイブリッドが許されて、野生生物では許されないか。

そこには、人間がもつ野生というもののあり方への願望があるような気がする。国境は人間が決めたものであるが、同様に、野生生物も、居住するエリアを決めているのである。その線を超えることを許さない、という考えがある。

さて、黒人と白人の間に生まれた子は殺さねばならぬか、もちろん、そういう時代もあったのである。おそらくアメリカなどで。それでも、殺さないと決め、育てた人々もいたはずである。悲劇はロミオとジュリエットの専売ではない。

同様に、ガンにとってもカナダガンとのハイブリットであろうが、純血であろうが、どうでもいいはずである。彼らは出会い、子を産み、育て、そして死んでいくのである。

しかし、このニュースが話題となるのは、本質的にはガンなど合いの子だろうが、そうでなかろうが、人間の生活には何も影響ないだろう、という前提がある。例えば、獰猛な野生動物であったり、病原菌であれば、そうはいかない。

よって人間がフォーカスしている時間軸で考えなければこの動きは分からない。この根絶という作業も、数十年という単位での話であって、数千年、数万年というタームで考えれば、日本のガンとカナダガンの次第に広がっていって両者のDNAが出会うのは間違いない。

つまり日本のガンがまずアジア大陸のガンと交雑する。カナダガンがアラスカのガンと交雑する。的なことを繰り返してゆけば、次第に近づくことが可能である。特に温暖化によって、居住エリアが拡大すればそうなる可能性は高い。

何世代もかければ、万年のオーダーで見れば、お互いの遺伝子が出会うことは可能である。しかし、それが人間が連れてきたために、1代で掛け合わせが起こる。それが問題であると考えていることになる。

そこで遺伝子汚染という呼び方で、ある意味ごまかしている。生物の遺伝子は汚染されない。適用するためなら、どんなトリックもありだ。ウィルス経由で新しい連鎖を獲得しようが、放射線由来で突然変異しようが、他の生物を細胞内に取り込もうが。

あらゆる活動が生物が生きるための抗いであって、鳥インフルエンザに罹患しても、鳥は己の免疫でそれと対処する。そのために人への伝染性を獲得しようが、鳥には関係ない。口蹄疫を患った牛の体内では免疫が最大限の働きをして生き延びようとする。それを人間が焼却処分するのはどういった権利であるか。もちろん、権利などないのである。それは経済活動からの要請に過ぎない。自分の糊口を確保するためなら、人は動物は殺し得るのである。もちろん人さえも含む。

そういう動物の働きを人間は切り捨てる。純血である将来への可能性も、混血することで拡大する可能性もどちらが益するかなど人間には分からない。故に、人間はその傍観者であるだけでなく、それについて、影響さえ排除しようと考えている。なぜ人間は自分自身を自然から疎外しようと考えるのか。

人間は、自然への影響を最低限にしようと考えているようだが、実際には気候変動さえ、影響しているご身分で、いまさら、売買される野生動物について、うんぬんするのも、本末転倒な気がする。イルカやクジラを守れといいつつ、ビーフステーキを食らう人々の頭の中には何が宿っているのだろうか。

どちらにしろ、このような目に見えるものだけを相手に遺伝子汚染とか言ってもそれはちゃんちゃらおかしいわけで、これだけ人間が世界中で活動している以上、細菌、微生物、ウィルス、寄生虫などの微小生物、昆虫が、拡大しているはずである。とうぜん、混雑しているはずである。第一、人間の表皮と消化器官にどれだけの細菌がいると思っているのか。糞尿をまき散らすだけで、数億の細菌が飛び散ってゆくのである。

人間が生きるために根絶するという考え方も、丁半博打に過ぎない。どちらがより人間に益たるかを読み切れるものなどいないのだから。だから、根底にあるのは、現状維持、今までのものをそのままそっとしておくという考え方である。

うかつに触っておかしくなるくらいなら、今のままにしておきたい。程度の考えでしかない。それは今までこれでうまくいったのだから、明日もこれでうまくいくという程度の根拠でしかない。

その根底には、人間の速度が自然や野生生物の速度とあまりに乖離していまったという問題がある。人間が生み出す遺伝子組み換えだって、数百万年のオーダーであれば、自然発生も考えられないわけではない。それをぐっと数年でやってしまうテクノロジー。

数百万という年月をかけて自然淘汰するわけでもなく、まずいものが消え、そうでなければ生き残るという自然の原則から外れてしまう。長い年月をかければうまくいくものでも、急激な変化が起きては、そうではないかもしれない。その担保の仕方を我々は知らない。自然淘汰以外の方法を知らないのに、それを超える変化を生み出せるようになってしまった。

この速度の乖離をどう埋めてゆけばよいのか。今の種もどこかでは滅亡する。それが絶滅だろうが、新しい種へ進化するのだろうが。人間でさえそれは例外ではない。核で絶滅するのか、地球から飛び立って、他の惑星で新しい進化をするのか。遺伝子改良して別の種へと変化するのか。クラークの幼年期の終りではないが、人類はその根底で絶滅というものを個人の死よりも恐れている種ではある。

この絶滅という恐怖がどういった原初的な本能から出てきているものか。また、それがこれらの活動と結びついているものか。おそらく関連していると思われる。そして、この行動が本当に人類に益するかも言い切れない。

言い切れないが、少なくとも、昨日まで存在しなかった脅威として、外来種を駆除しようとするのは分かるのである。その最初に簡単なやつ(カナダガン)でやってみた、というだけの話かも知れない。しかし、いずれにしろ、過去、どこまでを認めるかという話に厳密性を持たさざるえなくなるだろう。

江戸時代はセーフなのアウトなの?明治はどうなの?戦後だけか?これと全く同じ話は、まず日本人が雑種であり、南方、北方、大陸からじゃんじゃか追われた人々が混雑して形成された歴史がある。朝鮮系の人でさえ、縄文、弥生、飛鳥、豊臣、徳川、明治と、何回かの波をもって到来している。

ヘイトスピーチで朝鮮系の人を非難している人がいるが、さて、彼らのご先祖様が、はたして西暦1600年ころに朝鮮半島から来た人だとしたら、何だかバカバカしい気がするのである。単なる早い者勝ちの既得権益ではないか。

時間軸をどうとるかは、重要な視点だと思う。同じ問題でさえ結論をがらりと変える。そのうえで、今こういう行動をしているわけでないだろう。ただ当面、何もせずともいいとも思えない。急激な変化に人間自身が戸惑っていると考えるべきか。