「家族も参加する大運動会」「新人が社員旅行を企画」 日経ビジネスの「やる気向上」特集にネット民「まるで罰ゲームだ」

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バカと虫は幾らでも湧いて出てくると警告したのは、レイチェル・カーソンであったか。

 

「無気力社員ゼロ計画」は、どこかの中小企業がやってそうな話であって、モチベーションという言葉はサッカーで顕著になった考え方であろうか。短期決戦の成功はモチベーションで決まる。

 

これは真実であるが、問題は短期決戦とは何日(時間)までかという見極めが極めて難しいことだ。

 

乃ち、日本は4年の短期決戦でアメリカに挑んだのであるが、アメリカは長期展望で戦った。これが全く通用しなかった。

 

「従業員の生産性を上げるため」の「無気力社員ゼロ計画」は、徹夜でもして今日だけは乗り切るってレベルの話ではない。この国はこぞって『一億総牟田口廉也化計画』でも実行する気か。目の前がくらくらする。

 

皇軍は食う物がなくても戦いをしなければならないのだ。兵器がない、やれ弾丸がない、食う物がないなどは戦いを放棄する理由にならぬ。弾丸がなかったら銃剣があるじゃないか。銃剣がなくなれば、腕でいくんじゃ。腕もなくなったら足で蹴れ。足もやられたら口で噛みついて行け。日本男子には大和魂があるということを忘れちゃいかん。 

 

「『やる気向上』こそ経営課題」はそのまま上記の言葉が通用する方法論である。我々は結局同じ所に戻ってきたようだ。

 

生産性の向上というなら、まず、数式化して説明すべきだし、その施策がどれほどの効果がどこにあるかを、数式のパラメータから説明できなくてはならない。生産性とは、利益のことである。利益に対する労働力の割合のことだ。生産性が高いとは、低い投資で高い収益を得る方法論であるから、投資と収益のふたつに働きかけるしかない。

 

生産性(利益) = 収益(価格*個数) ÷ 投資(労働力)

 

ひとつは価格を高く設定する。すると、個数が変わらないならば、生産性は高くなる。しかしたいていは売り上げが下がるからデフレ社会では上げられない。

 

そこで経済学者が注目したのは労働力である。この場合は給与を下げるという意味だ。生産性を高くする最も簡単で最も効果的な手法は、労働者の賃金をきわめて0に近づける事である。手っ取り早く、労働者を奴隷に置き換えれば、生産性は向上する。

 

それをするのに邪魔なのが法律だから法律を変えましょうと訴えたのが、竹中平蔵である。これが規制緩和の正体である。彼は人間が感じるあらゆる苦しみの中でも最も惨めな苦痛を味わって死んでゆくべき人間の一人である。彼の主張はとても単純である。労働者は使い捨てです。偉い人にはそれがわからんのです

 

さて、一般的に、憲法があるから奴隷にはできないなら、生かさぬように殺さぬよう江戸時代の農民の如く扱うのがよいのである。契約の一言でそれは押し通せる。当然だが、費用をケチればやる気は削がれる。やる気が削がれればどうなるか、ソビエト連邦アメリカではっきりしている。

 

日本企業の強みは高い労働者意識であって、末端の社員までが美意識をもって業務に勤しんでいる。丁寧で、きめ細かく、自尊心で労働する。それが道路工事の土方から工場の生産者、はてまて、建築家にまで浸透している。

 

美しさというものを命題として労働に従事するのは、それは一種の信仰であり、告白である。小室直樹が指摘したように、資本主義の要諦は信仰にある。それがヨーロッパと日本でしか資本主義が成功しなかった理由だそうである。

 

いずれにしろ、貧しくとも律するという美意識がなければ経済は成り立たない。竹中平蔵は日本の未来を悲観したから、取れる者はいまのうちに全部取っておこうとしたのである。金こそがすべて、という人生観でこの国を変えた。

 

それはすべての人々にも影響した。自分の才幹や能力でのし上がる。これが日本のゴールドラッシュであった。そして、やる気が欲しいならお金を出せ。労働は費用の範疇でやる。そういう風に労働環境が変わった。これで日本は最大のアドバンテージを失った。

 

第二次世界大戦時、既に日本陸軍は時代遅れであった。ということに「日経ビジネス」でさえ無関心である。この国は基本的に短期決戦的思考しかできないということだ。これが文化なのか教育の結果なのかは知らない。ただ、あれだけの戦争をしても、気づかない所が度しがたいのである。

 

10年後をどれだけ語っても、明日の飯に困るならば、明日のための施策を行うしかない。それが10年後に破滅する可能性を高めようとも他の道はない。だから上位の何名かは、勝ち逃げできる体制を整えておこう。それが今のこの国である。

 

そういう椅子取りゲーム的な経済政策が密に始められたのである。いずれにしろ、やる気とはやっかいなものではある。これは宝くじと同じであって、買っても当たるとは限らないが、買わなければ絶対に当たらないがそのまま通用する。

 

だが、やる気があってもできるとは限らないが、やる気がなくても達成できるかも知れない。努力してもできるとは言えないが、努力しなくてもできるかも知れない。

 

「やる気」というものはいかにも十分条件と必要条件の素振りを見せてくる。やる気が生産性の十分条件ではないとして、やる気は果たして生産性向上の必要条件であるか。それとも、やる気とは、給与を支払わないための方便に過ぎないのか。

 

少なくとも、この国は「勝ち逃げ」を意図した連中が中央を牛耳り、最も「やる気」のない連中である。彼らが「やる気」という時、それは確実に、何か他のことを意図した理屈づけである。

 

ま、牟田口が理解できるとは思わないけど。