日本の銀行は既に死にたいだと考えてよいだろう。かろうじて手数料で商売しているのだが、もちろん、本業であるお金の貸付であったり、運用でだって実績を上げているに違いない。
問題は手数料は下げるどころか、上がっている状況を見る限り、本業で十分に利益が得られているとはいいがたい。
手数料というのは、通常は、貸金庫であったり、貸倉庫というビジネスモデルで行うものである。銀行もすでにその一形態となってしまった。お金を倉庫に預けているのと変わらない。
それはタンス預金の延長にあるのと変わらないという構造であろう。
利子で食う、という点に立てば今やサラ金の方がずっと真っ当である。下手したら闇金の方さえまっとうかも知れない。
もちろん、ここに至るにはやむ負えない選択の連続があって、こうなっているわけで、銀行だけの責任ではない。
また、銀行の圧倒的な信用は、いざとなっても一千万は保証するという点である。そこが株や先物、FXと違うわけで、政府保証がされている貸金庫とみなすのがふさわしい。
もちろん、銀行がばったばった倒産する暁には、一千万というお金にどれだけの価値があるやら不明である。下手したら過剰インフレで圧倒言う間に価値が小さくなるかもしれないし、どさくさ紛れに政府だって払わない可能性がある。
先進国の日本でまさか、優秀な大蔵官僚を擁する日本でまさかという疑念もないではないが、彼/彼女らだって、自由に動けない以上、手遅れはありうるのである。
一方でインターネットの急激な発展、電子マネー、ビットコインなどの流れを見れば、お金の貸金庫としての役割が別に銀行の専売特許である必要はなくなりつつあるかも知れない。
その辺の地銀よりも、例えばアマゾン、例えばgoogleあたりが金融取引を始めたとき、どちらにシフトするかは、考えどころである。特に手数料は要らない、としたら、考えどころである。その場合のリスクはそれらのグローバルとはいえ一民間企業が倒産したらどうしようというだけの話である。
当然だが、そのリスク分散は、今の銀行でだって同じ話はあったりする。
銀行というビジネスはもちろん、社会のインフラであるが、銀行の役割が今の形態でなければ絶対にいけないという話ではない。ネットバンキングが便利というが、それは従来の窓口の手続きよりは便利という話であって、次世代の取引であるかは、僕にはわからない。
もっと全く新しいお金のやり取りの可能性はあると思う。それに銀行が先達するとは限らないのである。そして、そういう形になってくると、通貨でさえ、本当にいまのままかという疑問が生じる。
インターネットの中の通貨が価値を持てば、そのまま取引すればいいじゃないか、という話はある。円だのドルだのユーロだの、要らない。
すると世界通貨という話であるが、実際には国々や場所場所で、通貨の単位は同一ではない。しかし、その為替が国単位である必要はあるのか、という疑問さえ出てくる。
コンピュータと優れたAIがあれば、個人単位での為替だって可能かもしれない。この人の100円の価値とあの人の100円の価値は同じではない。という話だってあり得たりするわけである。
そういう世界像を描くには圧倒的に研究が足りないのだけれど、とにかく、一回卸すのに100~200円というぼろい商売がいつまでも許されると思うなよ、というのは同意である。
だが、いまそれを0円にして銀行の力が失うのも時期尚早という気もする。