応対した警察官を包丁で襲った疑い 24歳の男を逮捕

いつの時代にもこんなおかしな人はいただろう。今の時代だから、という論理は信じられない。

 

殺そうと思った。それ自身はまだいい。別に何と思うのも言論の自由である。当然の話だが、信条、言論には自由があるが、行動の自由は、どのような政治体制も認めていない。

 

更には、言論には自由があっても、演説の自由もない。言葉となって発する事が、言論、思想の自由であるか、それとも行動の自由であるかは実にグレーな場所であって、それは今も決着などついていないのである。

 

が、それは本論ではない。問題は殺そうと思ったという割りに、この人にはなんらまともな計画性が見られないという事だ。

 

計画性がないと言うのは言いすぎかも知れない。何故なら「殺す=刃物」程度の図式までは出来ているからだ。だが、この程度の短絡さを計画と呼べるだろうか。これでは小学生の行動である。

 

24と言えば、社会人の経験もあるに違いない。早い人なら高校生の頃からバイトを始めていたはずである。既に5年以上の労働経験があっても不思議ではない。

 

それでこの程度の実行力であるとすれば、この人は職場でもかなりダメな人であったろうと思う。高校生でも切れる人なら、人を殺すにはどうしなければならないかを入念に考えるものである。

 

より確実に実行するにはどうしなければならないか、より実効性を高めるにはどうすべきか、世の中の制約を丹念に検証するはずである。そして、その結果がどうなるか。

 

計画を立てる、そのためには何回もシミュレーションをしてみなければならない。その過程で、一体、この行動が何をもたらすか、より効果を高めるにはどうすればよいか。最高のパフォーマンスと最高のベネフィットを、如何に低コストで行うか。

 

そういう所に考えを巡らす時、おそらく人を殺すという事についても考え直すはずなのである。それでも殺さなければならない。なぜなら、その警察官に見えるやつは実は宇宙からの侵略者であり、今殺さなければ、彼の案内で大群が攻めてくる。それ位の理由がなくっちゃ、計画は廃止されるのである。

 

計画を碌に立てられないから、実行したとも言えるし、計画も碌に立てられないから、思いついたとも言える。

 

果たして、この人は職場でどのような扱いをされていたのだろうか。いいえ、バリバリに働いていたリーダーで、自発的に色々な事を率先してやっていましたよ、そんな彼が信じられない、という談話があったりしたら、それこそ僕には信じられない。

 

そんな人が無防備の、警戒もしていないであろう警官さえ殺せないという方が信じ難い。

 

その時こそ、何かがおかしい。