裁判もなく殺害する是非は置いておいて、死刑を廃止したヨーロッパがこの行動を支持する是非は置いておいて、時に警察は殺害よりも捕獲を目指す。その理由は、犯罪要件のひとつである動機を解明する必要があるからだ。
IS国を支える思想について、おそらくイスラム教の人でも研究者であっても完全には理解していまい。もちろん、賛同する人は幾らでもいるから世界中からIS国に帰化した人々があの地に集まった。
彼らが本当は何を思考しているのか、何を目指しているのか、なぜそのような考えに至るのか、それは決して変えられないものなのか。そういう事例を蓄積するためにも本当は生かして捕えたい。だが、ニュースによれば「投降するよう求めたが拒否され、彼はトンネルの地下に行き、自爆用ベストを爆発させた。」トランプに言わせれば「犬こっろのように死んだ(die like a dog)。」
IS国に帰化した多くの人たちは本国への帰国が拒否されている。その子供たちもだ。テロリストらを国内に入れる事に、特にヨーロッパは否定している。そうでなくとも大勢の難民を受け入れ、右傾化が限界に来ている。
これ以上、テロ要員を国内に入れる事などできるか、拒絶反応が起きるのは当然であろう。これが千年前なら、何の疑念もなく移動途中で殺して山中に捨ておく事ができたはずだ。病気になった奴隷たちを大洋に放り投げた者たちの末裔である、出来ないはずがない。
所が、現在社会はその手法を拒絶する。そんな行為を受け入れるようには近代国家は構築されていない。これが先進国のジレンマ、というか哲学である。
朝日新聞のニュースによれば同じようにテロリストとして捕縛された人がアブバクル・バグダディから勧誘されたという。イスラム教の教えを厳格に守る国家の樹立はとても魅力的だと語ったそうだ。
ここにおいて、彼らにとって重要なのがイスラム教ではなく、実は国家の樹立の方にある。この国家指向は、当然だが、近代国家以降の我々の特徴である。
近代国家は、法による国家運営を基本とした。そのため、法がどの範囲まで及ぶかがとても重大である。その内と外では全く異なる世界である。わざわざ異世界に転生する必要などない。国境を越えればそこは異世界である。
つまり近代国家は国境をとても重視する体制だ。これが国家観を加速する。つまり、近代国家は、初めから独立を指向する統治体制なのである。
だから、世界中が近代国家の仕組みで国境が確定するまでに独立出来なかった、独立に遅れた幾つかの民族は、今も苦労している。クルドやロヒンギャの人たちは、そういう意味では、近代国家の被害者である。
所が、国境が確定すれば、もう彼らのために領土を譲ろうなどという大国主命みたいな殊勝な神さまは存在しない。だから、独立したければ、内紛を起こすしかない。テロリストにもそういう側面が色濃く反映されるのは当然だろう。
キリスト教は、少なくともカトリックもプロテスタントも国家を望まなかった。その前に彼らは国際的、と言ってもいいような、宗教的独立を勝ち取った(バチカン市国という特殊例がその証拠といってもいい)。そのような機関をイスラム教は作らずにきた。
そして現在になって同様のものを欲する人たちが出現するのは不思議ではない。そう人たちがバチカン的なものより近代国家的な国家を望むのも当然かもしれない。恐らく、近代以降の新興宗教はオウムの例にもみられるように国家的、独立志向のはずだ。
IS国の問題はイスラム教にはない、近代国家という枠組みと強くリンクしている、という点で、彼の思想を聞いた所で特に深い意味は得られまい。彼がなぜ国家を望んだか、そこに自覚はなかったはずだ。
そういう意味では、アメリカ軍が、トルコやロシアとの枠組みを強化するためにとも聞くし、イラクの人たちの強い協力のもと、このような raid を行った背景には政治的な意図がある。トランプが欲した成果は大統領選挙のためである。
現代人類の国家指向がこの程度で終焉するはずがない。イスラム教は、どのように近代国家との折り合いを付けるのか、これら一連の動きには興味深い時代的背景がある。仏教もキリスト教も近代国家が誕生する前に確立した、それより遅れてきたから、まるでイスラム教だけがこの問題と突き付けられているようだが、問われているのは彼らだけではない。偶々彼らの番だった、そう思う。