実写『パトレイバー』第1弾ポスター

www.crank-in.net

 

邦画が嫌いだ。あの程度の品質に満足できるなんて人間のまともな感性ではない。これは偏見であるが、邦画は低能以外には作れないと思っている。特に脚本が最悪だ。日本の映画なんて脚本が屑だから演者も育たないという構造で回っている。それは日本のアニメ監督が手掛けてもだいたい同じである。とはいえ全ての邦画やドラマが屑という訳ではない。幾つかの作品はDVDだって持っている。これから書くのは、すべて偏見なのである。

 

パトレイバー実写版のポスター。

 

背景のパトレイバーが造形に走り過ぎてて人間の座る場所がない。エンジニアリング的な考慮が足りない。それは演出上の都合として許容しよう。気にしないと決めれば気にならない。心頭滅却すれば、鰯の頭もサイエンスだ。

 

問題はこの集合写真。集合写真というのは、他人から見たら意味が分からなくとも当事者的には、時間の共有である。思い出の凝縮である。

 

有名な集合写真にマツダのロータリー四十七士がある。これから開発始めるぞ、はたまたやっと終わった、それとも開発激務のある日に、上司がおい集合、写真撮るぞーと言ったのか。そんな日常へのアプローチを醸さなければ面白みはない。

 

という視点からの集合写真。全員が顔をしかめている。その表現には何らかの意図があるはずである。と、思いながら見ていると本当にそうかと疑念が生じた。この集合写真には、独特の連帯感とか、一体感とか、いま、同時にこの場所にいるね、感がまったくない。

 

各々の俳優が自分の演技を競い合うだけかのような対立感さえ感じる。どうして集合写真を取ったのか、誰の発案か、誰がシャッターを押したのか、そういったバックグランドが全然見えてこない。

 

映画であれ、ドラマであれ、カメラのフレームの外には二種類の風景がある。ひとつは現実のスタッフやアシスタントの動き回っている世界、もうひとつは、その物語の延長線にある世界。

 

このポスターにはそれが欠落している。だれか、はいチーズくらい言わなかったの?

写真に映る時に腰に手を当てている人はまだ雰囲気が出ている。この人はどんな写真でもこの格好で移っているんだろうな、という人物造形が感じられる。

 

左端の背広の人、偉い人なんだろうけど、この人の表情は深刻である。そんな深刻な時に写真とるのか、そもそも、こういう人は絶対に集合写真には入らないって。入っても髪の毛しか写ってないような入り方をする。絶対に腕組みなんかしない。知らないのかな人間ってやつを。

 

それは後ろの憮然とした整備士もまた同じだ。そこまで嫌そうに写真に入らないだろう。例えばたまたまそういう顔で映ったんです、写真うつりが悪いです、って顔の演技でさえない。しっかり決めての憮然の顔だから意図的だ。集合写真って何だと思って演技に入ったのだろう。

 

これを集合写真と呼べるのか、と言いたくなる写真である。

 

そしてその叫びは正しい。これは集合写真ではない。映画の宣伝用のポスターである。これからポスターを撮りますよ、みなさん、パトレイバーの前に立ってください。ほらほら、自分達の最高の決め顔をしてください。真っ直ぐ立っても面白みがないですね、ちょっと変化つけましょう。誰が見ても一発で分かるキャラクターの顔をしてくださいね。そういう方向の出来損ないだ。

 

そんなポスターが見たいんじゃないんだ。もっとちゃんと演じてくれよ。演技できないんなら素のままでもいいから。

 

これなら、クランクアップした時の俳優たちの記念撮影って感じの方がずっと素敵だった。

 

パトレイバーのリアリティはね、警察という日常の風景の中にある生活だから。それが世界のすべてを支えていて、そのリアリティの上に、自衛隊のクーデターとかテロリストという架空が構築されているんだから。パトレイバーとは少し先に来る未来の日常風景だから。