ユダヤ人へ憎悪犯罪相次ぐ 米NY州、今月だけで13件

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人間は簡単な答えを欲する生き物だから、何かの原因が宗教、民族、国家に集約するのは自然である。そのような短絡さではダメだという事は、太古から自明であるが、そのような声に耳を傾ける人は少ない。

 

だからアルキメデスを気の狂った小汚い老人と見た兵士は勝手に殺したのだし、彼の偉大さを知るマルケッルス将軍は残念に思っただろうが、それでもこの兵士を罰しはできなかっただろう。無知なら仕方ないと嘆息しただろうか。

 

その無知を理由とする事を拒否するのが現代であろう。それらへの無知を理由とする事には何の正当性もない。貧困も格差もそれを原因とすべきではない、という考えが本当に正しいのかどうかは経済学者の分析を待つべきだろうが、経済学者自身がこの偏見から逃れられない以上、彼らの言葉もまた説得力は持たない。

 

ポリティカルコレクトネスは、以上のような立場から、過去に遡って偏見とそれに続く考え方、習慣、言葉を取り除こうとする考えである。それが本当に効果のある活動かは知らない。恐らく偏見も差別も過去から沢山ある。それが伝統と呼ばれ差別政策が国是となった国もたくさんある。

 

PCは差別、偏見という見方だけで過去を切り取ろうとするただの史観に過ぎないとも思う。それが政治的行動になるのは原理主義的であろう。しかし、アメリカの良い所は、ああ見えて原理主義者な所である。ただ彼らの原理は宗教でも民族でもなく、自由と民主主義、つまりアメリカ合衆国憲法に対する点が他の地域と異なる。

 

そんな彼らであっても、貧困や格差は耐えがたいものであるようで、目の前に答えが歩いている、そして手ごろな所に銃が転がっていれば、引き金を引くのに10gの力もいらない。今回の犯人はよくナイフを選んだものと感心する。銃さえ手に入れられなかったのか。

 

しかし、よく2億人もの人が住んでいて、これだけ格差が激しくて(ストリートチルドレンが存在する国家!!)、この程度の銃事件で済んでいると、逆に関心すべきなのだろう。

 

問題の全てが経済に根差すとは言わないが、問題の多くは経済によって解決できる、またはマシな状況に変えられる。衣食足りて礼節を知る、これは人間の真実ではない。生物の真実である。それを喝破した管子の偉さ。

 

日本経済のコスト削減は、毎年の人件費(給与)を下げる代わりに、終身雇用を取引条件として提示した。これは日本的共同体、家族制度ともよく合致し威力を発揮した。

 

日本における核家族化、それに伴う専業主婦化という社会変化は、要は都市への人口集中への対応だろう。それまで多くの地方で行われてきた経済活動が、都市集中に変化したのは、要するに産業構造が農業から工業に変わる変化への社会的適用であった。

 

この流れに対して、もっと搾取できると、堂々と伝統的方法を破壊し、更なる収奪を目論んで立法化したのが竹中平蔵である。彼は労働者から合法的に資産を奪う方法を模索した。その結果が日本の社会構造を破壊し、企業の競争力を衰退させようが気にもしない。そうなる前に可能な限り強奪すればいいのだ。

 

この者は如何に金を合法的に略奪するかしか考えてこなかった人物であり、それが日本では著名な経済学者として評価された。彼が市民を騙すために持ち込んだトリクルダウンだの、能力評価だの、雇用の流動性など、その全てが労働者を奴隷に変えるための方策である。

 

どこかで日本は変わる必要があった。それがバブル崩壊後の停滞を味わってきた人たちの偽らざる感慨であろう。そして停滞が続くくらいなら破滅に向かってでも歩き出したいという人間心理を巧みに利用した結果がある。

 

しかし、停滞の原因は社会構造の瑕疵にはなく、人口減少による自然発生的な現象であり、それ以上に、世界的な経済が工業からその次、おそらくITへと遷移しつつある事に起因するものと考えられる。それに対して骨太の方針で示す政策の何一つとして効果的な方策でない事は明らかである。

 

雇用体制の改悪がなぜ新しい産業構造に適応する対策となりうるのか、それを説明できるものはいない。それは当然であって、詐欺師に何を聞いても耳障りのいい事しか語らないのは自明である。

 

礼節を失う足りなさは、何も物質的、金銭的な足りさなだけではない。精神的な充実感、充足感も含まれるから、甚だやっかいで、力を持つものが敵を作り、それ攻撃すれば人が集まる。攻撃が強くなればなるほど支持者は更に増えてゆくだろう。

 

この時、誰をは、民族、国家、宗教など幾らでもある。「あとから貨車で積んでこれるくらい(永田町・権力の興亡 最長政権その光と影より)」である。目の前にあって、何か違うものを捕捉すればいいだけである。

 

変化は新しい利権なのだ。社会変革への対応が単なる既得権益の打破と新しい既得権益の誕生にすり替えられるだけなら、恐らく、現実は変わらない。

 

そして、対象さえ決まれば後はみんな同じになる。それを敵として攻撃する。敵がいるから団結するのではない。敵を作るから団結できるのである。それが気持ちいい人たちは沢山いる。集団の数こそ力である、という考えは民主主義の根幹とも相性がいい。

 

ではそれで何かが解決するか、それを本気でやろうとしたらナチス以外の道はなく、ナチスはそれに失敗し、百年たった今でもその一点だけで悪と評価される。誰もが敵を叩けばいいというのは太古や中世の思想としてはあり得たが、核という力を得た以上、もう現実的ではない。

 

人間の争いに耐えられるには、別の言い方をするなら、人間が得た物理学と比べれば、地球はもう狭く弱いのである。狭い環境に多くの人間が住めば争いが絶えない。さかなクンが小さな水槽で魚をたくさん飼った時の観察からもそれは自明である。

 

とすれば増えすぎた人類をどうにかするしかないのも自明となり、核兵器はそれを解決する最も効果的で有力な手段のひとつであるが、そのような愚行をしたくなければ、恐らく、緩やかに人類は人口を減らすべきで、先進諸国の少子化はその答えであろう。

 

我々の経済構造は、人口の増減や居住する地域に影響を与える。分かり合えない以上、人々は、棲み分けをするのがよい。同化政策など、ろくでもないのは中国が絶賛、実験中である。その棲み分けがしにくいのは都市化が原因だし、もうひとつは SNS が原因だろう。これらが人々を急激に近づけすぎた。

 

少しの距離を保てば仲良く出来る人も近づきすぎれば殺し合いだってする。ならば、新しい経済がこれを解決するべきだし、それ以外はなさそうである。つまり工業経済以外の何かが、新しい人類の居住環境を強制する。それがこれらの問題をより温和に、そして解決する方向に向かう、そういう解決策があると信じる。