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SDGsが殆ど中学生の学級会の乗りで実施されているのをテレビのバラエティなどで見ていると流石にこのメンタリティは先生に褒められたい以外の何もないのかと嘆息せずにはいられない。

 

SDGsなど太古から行われてきた。世界語で言えば mottainai である。日本は資源の無さを反映してか3R(reduce, reuse, recycle)は常に頻繁に起きた。石油の一滴は血の一滴である。この言葉はしかし日本オリジナルではない。クレマンソーの言葉らしい。どの国でも資源が足りなくなれば同じ思想なのである。そんな事は干からびそうな池の中の微生物だって知っている。

 

SDGsという標語が素晴らしいのは「我慢しない事」を第一義に掲げている点であろう。開発は続ける、我々の文明の繁栄は決して後退させない。今さら石器時代になど戻れるものか。よって我々が間違えているのは持続性についてである。どこまでこの方法が通用するかの視点である。より遠くを見なければならないという啓蒙である。

 

若い人と老齢の人で始点が異なるのは明らかだから、自分たちは勝ち逃げができる世代とこれから嵐の中に突入するのかと目の前を見ている世代では切迫感が違って当然である。

 

という事は資産を持つ者と持たない者でも視点は違う事になる。キリストは語った。神の前では全ては等しく奪われると。しかし、当然キリストは誰から奪われてゆくかまでは正直に語らなかった。彼は知っていたのである。持たない者から奪われてゆくと。

 

持たない者とは神への信仰心の事である、そう語ったのかも知れないが、経験上、人はそれが富である事を知っている。富を持つ事はそれを遅らせる事ができるのである。

 

地球が滅びるかも知れない時に何を悠長な事をと言えるのは、いま死にかけている人間だけである。西行だって昨日今日とは思わなかった。我々には発想さえ難しかろう。

 

よってこの問題は感情でも満足でもなく、バルカン人の方法、つまり極めて論理的でなければならない。その上で、それはどういう考え方で進めればいいかの方法論、技術論の展開となるしかない。

 

だからSDGsとは化石燃料の廃絶でもなければ二酸化炭素排出量の削減でもない事が分かる。それらは、目の前にある危機であって課題であって懸念であっても、それは方法を決定するものではない。

 

SDGsにある目標と、それを更に考え進めるための17の細分は我々の知見の統合に過ぎない。歴史上、資源というものは常に文明の基盤であった。それを失った地域は簡単に数十~百年で滅びる。それは生物進化も例外ではない。

 

資源の不足は、常に3Rを要求する。それを一言で言えば mottainaiである。この長い間かけて蓄積された知恵は、持たない者の間で脈絡と道徳として形成されてきた。この考え方で生きてゆくのに不満はなかった。起きて半畳、寝て一畳、真理である。

 

ではこれにまっこうから反対したものは何か。蒸気機関の発展はその原初をルネサンスに求める。人々が科学的知見を発見すればその応用としての工学の発展は不可避である。最終的にそれは熱の問題となり、熱を理解するためにエネルギーという考え方を必要とした。

 

幸いに石炭、石油がスチームパンクのロマンを実現した。人間を凌駕する生産量、それを遠くに運ぶ高速な移動体、どんな強力な刀剣をも屈服させる大砲。産業革命とは地球の体積を著しく狭くした出来事である。体積が小さくなれば圧縮熱が発生する。そういう現象と考えて差し支えない。

 

太陽の活動がどうあれ、Co2による温暖化という知見は検証可能な科学である。だが、その危険性にこの星の産業を止める力はない。point of no returnを懸念する科学者たち、またはこの出来事をgame changerと理解した人々は、この流れを失わせる訳にはいかなかった。実際に異常気象は世界中で起きている。もちろん、一億年前の異常気象を我々が知るはずもない。

 

いずれにしろ3Rでは効果が薄い事を理解した人々はもっと強い標語が必要と考えた。それは、産業構造を変えるようなものでなければならない。いやこの標語を作った人たちは明白に理解していたはずである。現在のような大量消費型の資本主義は変えなければならないと。

 

大量消費とはつまり安い製品が溢れる世界である。そのような市場で競争を続ける限り、価格競争が何よりも尊い原則となる。その為に必要な事は?大量生産、短い商品サイクル、新しい流行、安い労働者、可能な限りそれを合法とする移民政策、それを強く推進するための動機付け、つまり能力によって高収入が約束されるとする幻想、その結果としての特権階級の形成。我々の社会は中世に逆戻りしつつある。

 

SDGsはこの全てに戦いを挑む戦略だろう。優秀な戦略家がいた。しかし彼ら/彼女/Otherの誰もが、どれだけ考えてもどうすればよいかの戦術は見いだせなかった。道は見えている、どこをどう歩けば良さそうかも分かりそうなものだ。しかしどうしても道が切り開けない。まるでリーマン予想のような問題。

 

だから、彼らはSDGsという大量消費型資本主義を否定しない標語を作成した。そこにあるそれぞれの問題意識も我々の人権思想や民主主義から当然の帰結のように見える。この標語をせせら笑っているのは大量消費型資本主義で持つ側に立った者たちだけである。

 

つまり、最初から彼らを相手にする気はない。相手にしていては勝てない。いつまでも笑っていればいい。消費者の動向が変わればお前たちの方法論は根底から否定されるのだ。その時にどのような資本主義が、いやその後継となる経済システムが誕生するか、誰も知りはしないのだ。

 

第三次世界大戦後をモデルとする経済システムにはマッドマックスや北斗の拳バイオレンスジャックが描く暴力による遺産の略奪とその先にある秩序の形成とか、ナウシカのような優れた王による統治から再出発するようなものがある。

 

そこを目指したくないからSustainable という言葉を入れた。それを可能とするのはDevelopment しかない、それが科学技術等への子供らしい憧憬に過ぎないとしても。

 

文明は必ずエネルギーを必要とする。それを支えるのは資源である。そして、環境である。必ずこの星の限界以上には我々は拡張できない。どこかで頭打ちする。それを調整するには最終的には人口である、人を減らすか、または宇宙に出るしかない。

 

発展は必ずエネルギーの使用量が右肩上がりのグラフを描く。問題はエネルギーの増大に対する熱の発生であろう。必ず捨てられる熱がある。この熱をどうするか、Co2、メタンによる地球温暖化は熱の問題に等しい。

 

逆に言えば同じエネルギーを使用しても捨てる熱を少なくする、同じエネルギーであってもそれが支えられる人口が多くなる、廃棄物の再利用性、無害化が高まる、これらは高効率を目指すのと同じ意味だ。

 

この方向性である限り、科学は大量消費型資本主義を決して拒絶できない。同じ方向でしか進めないのである。その先は時間は稼いだが結果は同じであったという火の鳥のような結論である。それでは恐らく駄目だ、と考えるならば、新しい経済システムが必要である。そのシステムが求めるコアシステムは何であろうか。

 

物やサービスが動く事は削除できない。それが何らかの交換によって人の手に渡る事も排除できない。経済の基本システムはこれ以外は考えにくい。もちろん、全てを国が配給するとか与えられたものだけで満足するというソビエト共産主義も考慮する必要はある。だがこれでは失敗する気がする。未だにその幻想が忘れられないプーチンとその取り巻きは聖戦を始めてしまった。500年は火に焼かれるだろう。

 

経済のコアは変えられない。よって現在のシステムは供給モデルに問題があるという結論になる。フォードが始めた大量生産という先進的なひとつのモデルは、アメリカの繁栄を象徴する、またはそうなるようにフォードが先頭に立って労働環境、生産計画、工学的合理性を調節した。実際にアメリカはそうやって強力な中産階級を生み出し、程よく豊かで自由を愛するアメリカ人という市民象を20世紀に形成した。工業万歳である。くたばれ南部の帝国主義ども(農業経済)である。

 

実際、優れた人々の存在がアメリカをして世界でもっとも強い軍を持つに至らせた。多くの優れた移民が機能したから1945以降の世界で理想的なローマ的平和を世界にもたらせたのである。実際がどれだけの悲劇に覆われているかは関係ない。少なくともナチスが勝利する世界像より、イギリスが君臨し続けるより、かなりましな世界をもたらせた。たった100年。

 

世界の敵が産業が吐き出す様々なゴミ、例えば化学物質であったり研究所から逃げた病原菌というなら話は単純である。核が事故で爆発したとしても結論は単純だ。

 

まさか煙突から吐き出す煙の成分がこの星を蒸発させるとは我々の多くは夢にも思わなかった。今だった本当に信じている人は少ないはずである。科学的に説明しろと言われて最後までメカニズムを説明できる人は少ないだろう。おおざっぱに温室効果が熱の収支を狂わせている、売れば売る程赤字となる製品と同様に作れば作るほどCo2が増加し熱が逃げなくなる。

 

逆に言えば、それを制御できれば、自由に温室効果を制御できるようになれば、問題は解決するはずである。SDGsが17もの細分化し細かなGoalsを求めるのは、技術的解決だけでは単に賢い科学者が独裁者となる世界が訪れるだけだと考えているからだろう。

 

Co2を石化する事(石灰岩)。大気中のメタンを氷にする事(メタンハイドレート)。それがどれくらい簡単にできるのか?地球がどうやってそれを実現したかさえよく知らない。

 

すると、我々の向かう先は、むやみに「燃やさない」に尽きそうである。だが燃やさないけど物質的繁栄は一歩も譲らないというのは恐らく難しい。

 

よって現在のようなデフレ化こそが最高のSDGsの解決策となるのだろう。経済的没落が問題解決の有力な方法のはずである。そのような状況にあっても搾取し略奪する行為は尽きない、よってSDGsのひとつの目標は経済的衰退の中にあっても自分たちだけが利益を得るような層に対する戦いなのである。

 

そんなに難しい事ではない。あくまでも人間らしく。それに敵なす者は打ち砕くべき悪と認定するだけの事。この単純な思想で今は構わない。つまりSDGsとは竹中平蔵を社会的に吊しあげる事である。