アメリカでは、弁護士同席での取り調べだし、取り調べは録画、録音もする。それでも、弁護士のいない所では、無実の人でも強烈に疑って吐かせようとしたりする。FOX TVでの知見ではあるが、アメリカでさえそうである。何もない日本においておや。
アメリカにはサンデル教授で一躍有名になったような政治哲学がある。そのため政治哲学といえばコミュニタリアニズムとリベラリズムの対立という感じもするが、この根本にキリスト教があると思われる。
キリスト教について思う所として、神に個人が許しを得る、があって、日本であれば、神社仏閣よ、鎮まり給へ、と言うべき所だ、ここにベクトルの違いがありそうである。
さて、このような背景で生まれた民主主義や自由主義の考えでは、権力は一種の自然災害と見做す事が可能で、それが人間の自由にはならない何かという見方ができる。
このリバイアサンが国家の根幹となる。そういう哲学を元に、斯くあるべし、と言う理念が憲法であれ、こういった刑法における取り調べの手続きであれ、アメリカでは徹底して改善されてきた気がする。
もちろん、人間のする事であるから理念が徹底されても実務はそうはならない。
一方、日本の歴史に政治哲学なるものがあったかと言えば、明治以降にこのような考え方は発祥していなくて、江戸時代までなら、御政道という言葉がぴったりする。
ただ、御政道って何といわれても、儒教かなぁ、朱子学かなぁ、仏教かなぁ、国学かなぁと、流石に源流は中国を発祥とする4000年のアジア圏の政治に至る。
つまる所、尭舜を手本とする理想があって、その先に幾つもの訂正や改善や対比が行われて、魑魅魍魎ではあるが整然としている感じでよく分からない。
ヨーロッパと同じ時間をかけて、大きな違いが生じたように見えるが、ミクロで俯瞰すればそう遠くない感じがする。マクロで俯瞰すれば、恐らく、アジアは変わっていないのに、ヨーロッパではどこかで爆発に分岐した感じだ。
何かが刺激となって、ある手法を確立した、その手法は誰の手でも使える汎用性があるので誰もが試みる、その結果として違う結果が得られた、それを対比してゆく事で更なる発展が観察される。アウフヘーベンなんてその一形態に過ぎない。
取り調べの考え方は、アメリカの方が進んでいると思える。それは人間の中にある非人間性に対して直視する勇気を持っているからだと思える。そのために、彼らには、かくあるべしという哲学が必要であった、と理由にしている。
だから日本に哲学はないだろう。実際の司法でどうなっているかは知らないが、自白は、証拠となりえない。反省しようが、何を認めていようが証拠となる能力はない。当たり前である。創作が真実になる訳がない。
これは自明と思われるが、この自明が分からない人間がいる。江戸時代から自白は日本では証拠なのである。確かに近世、江戸時代ならば、科学捜査にも疎く、物証から導かれる証拠も乏しければ、自然と自白に頼るしかない事にも納得できる、そういう部分はある。そのトレードオフは冤罪も多かった、である。
恐らく江戸時代でも理路整然と考える人は、その事は分かっていた筈である。状況証拠という言葉しかないが、それは絶対ではないと考えていた人はいた筈である。だからといって、他の方法が合った訳ではない。
それでも丁寧な取り調べとは、状況証拠を丁寧に搔き集める事であったろう。その上で身代わりであろうが犯罪者であろうが冤罪であろうが、裁く相手を見て、判断する、その人間を見つめる自分の識眼に信頼を置くしかない、と一種自覚していたであろうと思われる。
しかし、そのまま現在に於いても自白が最も有力な証拠であるなど(笑)、笑止千万。犯罪者に仕立て上げたければ、明確な証拠を示せ、が自明であり、それは素人が見ても有罪と出来るものでなければならない。
だから、裁判員制度に実現可能性があるのであって、一つでも疑わしければ原則無罪、証拠が不足しているならば、それは無罪なのだ。常に最大風力で無罪に向かって風が吹いている。その中で有罪の証拠を積み重ねて無罪でないという場所に辿り着かなければならない。それが推定無罪の考え方である。
日本は推定有罪の風が吹き荒れるなかで無罪に向かって舟を漕がなければならない。アマチュアと呼ばれるべき民族であろう。
更に言うなら、検察側の人間が信用できない顔付きをしている、その理由だけでも無罪にして良いのである。これは合理的な判断である。逆に被告が悪そうだから有罪は許されない。
取り調べの可視化というものがある。そもそろ論として、自白が証拠として一切採用しないと決めれば、どうでもいい事でもある。調書など、検察官の作文であり、そこに書かれた事はなんら証拠として使えない。そう決めればいいだけの話だ。
もちろん、自白に頼るしかない犯罪がある事も確かである。DVはその深刻な一例である。だから刑事事件は難しい。
この記事にある検察官の「判決は俺が決める。」なるセリフは司法の破壊であり、いうなれば、国家の基盤を破壊しようとするテロリズムである。国家反逆を企てていた、といって過言ではない。死刑妥当である。