古舘伊知郎がNews Stationで言っていたが、批判するまでに時間が掛かり過ぎだ、と言っている人達がいるそうである。
アメリカよりも非難表明が3時間遅れたと言う。それが危機管理がなっていないと言うのだ。
こういう意見を表明する人を説得するのは無理だし、お互いに理解し合う事も、議論をする事も成り立たないと思う。それを国会でも延々とやってる。
これを馬鹿馬鹿しいと思えない人が、居るのだろうか?
馬鹿な人を、馬鹿と罵るのは楽しい事だろうか?それは楽しい。馬鹿と罵倒すればそれはスッキリする。ストレス解消にもなる。
相手を馬鹿と罵り、自分の正義が通り、思い通りになって、称賛を受けられれば気持ちいい。そこにはヒーローになりたい願望だってあるかも知れない。誰だって、誰かに頼りにされれば嬉しいのだ。
だから、相手を罵倒するのは、孤立の裏返しだ。相手よりも一時的に優位に立って、自分の地位を示したり、能力を示す事で、孤立から抜け出したい、という気持ちの表出だ。
相手が馬鹿ならいっしょになって考えてみればいいじゃないかと思うが、馬鹿には馬鹿の理屈がある。それは頑強なので言っても無駄と切り離す。
互いに気持ちいいのだから、互いに罵倒をし始める。それが普通だ。もし相手が何も言い返さないとしたら、それはちゃんと考えがあるのだ。エスカレーションしない、現状を真剣に変えたい、それに気付いた側と気付かない側がある。ましなのがどちらであるかは決まっているが、どちらが主流となるかは分からない。そういう国である。
自分の感情の発露はしても、問題解決からは遠い。もし、相手を馬鹿呼ばわりする事で、そこで考えを止めているとしたらどうだろう。
もうひとつ、二つ先に踏み行ってみる、他の可能性はないか、視点はないかと探してみる、自分の感情はどこから湧きだしているのかとダイブしてみる。
それもなく、ただ、神の御加護を祈っていても状況は変わらない。祈りは、インスピレーション(啓示)を得るためにするものだ。
何事も思い通りにならないのは煩わしい。ゴルフなんか、なんでここで、と言う所でダフったりする。それをクラブのせいにしてその場しのぎで鬱憤を解放しているが、そこで終わってはダメだろう。
自民党の政治家が、閣僚を罵倒する、政治家を新聞が嘲笑している、NHKでさえ民主党政権への不信を公共の電波でばら撒いている。
正義の名のもとに、馬鹿相手に罵倒していれば、気持ちは晴れるだろう。だが、何かが、この国で思い通りになってないのだ。そういうものを生んだ土壌がどこかにあるはずだ。
それが、先の見えない霧のような状態にあって、ゴルフで言えば、打てども打てども、ダフったりトップしたりしてスコアを悪くしている。だが、何をすればいいのか、どうすればいいのか、自分では分からない。
一体、上手く打てた時と、悪いショットの時では何が違うのか、自分のスイングが悪いと言ったって、では何をどうすれば上手くいくのか、何が良い時と悪い時を分けるのか。
The Openの優勝寸前でパットを外したプレイヤーがいたが、彼が下手だったり練習不足だったりする訳がない。たまたまだったというのか、昔の人はそれを神の御加護とか、天と呼んだりした。ゴルフの神様に愛されなかったと呼ぶ方がまだ少しは納得がいく。僕はそれをクラブが悪い、と兎にも角にも立腹している。
世間では、民主党が悪いと言っている。不思議なもんだ、この国では、政府がそういう役割を担ってくれている。