長澤まさみらの映画でさんざんやりつくした感のある誰かが死んだら道が開けた系な作品はどうだろう。その命の軽さはその感動に代償に相応しいか。
もちろん、作品のなかの1エピソードとして誰かが死ぬ事はありうる。時に本当に軽く死んでゆくのは現実も同じだ。作品として存在するのは問題ない。
だけど、それに感動する心が、一体そこに何を求めたのか、そこに何を読み取ったのか、これは一度立ち止まる場所だと思う。
例えば少女からしたら色が見える世界を得る為には大切な誰かが死ぬ必要があった、そのように読める。少女がそれを望んだとは思えない。本当に?
恐らく意識ではそうであるだろう。ならば少女に色のある風景が訪れたのを刺激という一言で言えてしまうのは少女の言葉なのか、作家の言葉なのか。
色の付いた景色が広がって「それでも彼が生きてくれる方がいい」というセリフだったら、チープで平凡すぎるだろう。「その風景はあまりにも刺激的だった」なら作品が少し過激になる。
さてさて、このときの彼女の顔はどうであったか。ということを想像させたくて、後ろ姿を描く。その時の表情を描くと恐らく作品が成立しない。
笑っている顔では変だし、でも、その風景に驚かないものおかしい。死んだ人の事でいつまでも立ち止まっている訳にもいかないし、命はそのようには出来ていない。だからと言って、死んでくれてありがとうとも言えない。
つまり、こういう時に人間はどう振る舞うだろうか、と考察してみると、想像力が必要となって、立ち止まっているしかない。暫くしてひとはようやく思い出したように動き始める。動く様に出来ているからだ。
少なくとも誰かが死んで目が見えるようになったのなら、その次には、目が見えるようになるためには誰かを殺そうという事になる。これは人間なら当然の思考だ。
その先には自分たちが幸せになる為には誰かの死も厭わないという思想まであって、そこはほんの数ミリである。そりゃ誰だって、そう考えるのが普通だし、実際に世界はそうやって失われてゆく命がある。
そう考えられないのは、そういう状況に置かれる事がないか、世間のニュースに無関心だからだ。世界の戦場や、貧困地帯ではいつ迄も立ち止まってはいられない。
水木しげるは、昔の戦地に訪れ、風景を眺めていた。そうするとどうなると思います?とインタビュアーに問い掛ける。その頃を思い出してとても悲しみ気持ちに落ち込むと思うでしょう?違うんです。そうじゃないんです。もうゲラゲラと笑いが止まらんのです。
この話がいい。
「色の見えない少女」 pic.twitter.com/AAoslv2o2m
— しらこ (@Rakoshirako) October 26, 2015