一人親支援プロジェクトで論争、弱者を救うのは“意識高い系”なのか?

一人親支援プロジェクトで論争、弱者を救うのは“意識高い系”なのか?
(THE PAGE - 10月27日 07:01)

手当拡充を求めるキャンペーンについて異論を挟んだのは、リクルート出身の人材コンサルタントで、千葉商科大学国際教養学部専任講師も勤める常見陽平氏です。キャンペーンのサイトでは菅官房長官宛に「子どもを5000円で育てられますか?貧困で苦しむひとり親の低すぎる給付を増額してください!」とのタイトルが付いています。自身も母子家庭で育ったという常見氏は、この表現について、一人親=貧しい、という印象操作になってしまう可能性があるとして疑問を呈しました。

これに対して、キャンペーン主宰者の一人である社会起業家駒崎弘樹氏は、一人親家庭過半数が貧困に陥っているのは事実であり、それを広く社会に知ってもらい、現実の支援につなげることが重要だとのスタンスです。

双方の意見はあまり噛み合わず、最後は少々ヒートアップする形となってしまいました。常見氏は「こうした支援をする人は、本心では弱者を見下しているのではないか」「意識高い系のアピールがあるのではないか」と発言し、駒崎氏はこれに対して「若者を揶揄している時間があったら、具体的なアクションをしては?」「たとえ偽善者と呼ばれても、実際に困っている人がいるのであれば事態の改善を最優先したい」と返しています。

もっとも常見氏は母子家庭とはいえ、常見氏の母親は大学教授を務めるインテリで、自らは特に弱者というわけではなく、自身の体験を一般化するつもりはないと述べています。また当の母親からも、発言を自制するようにとの連絡があったそうです。ただ常見氏は、一般的には強者と思われている人でも、こうしたデリケートな問題では傷つく人もおり、表現に対する配慮は重要との考えです。

常見氏が当事者の一人であることは事実ですから、キャンペーンを主宰する以上、主宰者側は、どのような内容であれ、当事者の意見にはそれなりに耳を傾ける必要があるでしょう。一方、経済的に余裕のない一人親世帯(特にシングルマザー世帯)の窮状は限界まで来ています。

非正規労働に従事する人の割合は女性の方が圧倒的に高く、その結果、女性の平均的な月収は男性を大幅に下回る状況です。日本の一人親世帯の環境は国際的に見てもかなり劣悪なのですが、この現実はあまり知られていません。多少、目を引く表現にしなければ、多くの人に知ってもらえないというのもまた事実といってよいでしょう。

(The Capital Tribune Japan)

 

社会運動というものは、問題に対するアンサーな面があるわけで、つまり、その究極は次の言葉に尽きるだろう。

 

この世界の衆生がみな悟るまで、私は涅槃に入らない

これすなわち菩薩である。

 

全員を救うことを目指す。これは正しい。

 

しかし菩薩でさえ無理な事を人間に望むのは、無理である。

 

ゆえに、

一人を殺せば犯罪者だが、百万人を殺せば英雄だ。

チャップリン、またはスターリンの登場である。

 

3人の救助を待つ人がいる。しかしヘリコプターにはあと一人しか乗れない。どうするか。

 

一番弱った人を乗せて、次のトライで二人を乗せるのが本筋であるが、これ、タイタニックなんです。次の救助はないんですの場合はどうしても二人落ちる。

 

危険性を高めても、全員乗せる判断もある。ただし墜落したら次の救助も出来なくなる。そのリスクをいま負うか。

 

はたまた、自分が下りて二人を乗せようとする人もいる。岳という漫画にあった気がするのだが、これが可能なのは準備万端で二の矢三の矢が用意できる場合に限る。

 

ひとりづつしか助けられない。だから、場所によっては手が届くまでに時間的ラグがある。

 

そんなことは百も承知で、一人でも救ったほうがいいと、シンドラーも千畝も努力した。一隅を照らすとはなんとも残酷な言葉だ。

 

社会的活動は、こうして、挫折と限界のせめぎ合いの中で、そりゃ割り切れれば簡単だ、だけど割り切りたくない、とかなりの精神的汚染を強いる。だから健全であるためには忘れる力がいる。そうでない人には難しい。あっという間に潰れてしまう。

 

1000人殺す事なんかへとも思わない人間でなければ100人も救えない。

 

そういう活動の中に、数多くの見捨てられたもの、見落としされたものがあるのは当然だ。別の視点からそれを指摘する人がいてもそれも当然である。

 

当然であるが、まぁ殆どの場合は見捨てられる。または見捨てる。小異を捨てて大同につくみたいなもので、カマッテられるか、そんな時間も予算もないという話である。

 

時にそれは正しい。しかし、時がそれがとんでもない誤りになる。だが、それは後世の歴史にならねば分かりかねる。

 

当然、分かっているなら善後策を取るし対策もする。分かっていないからそうなった。分からないのは何故か、最終的には、それが未来に起きる事だからだ。

 

それを予測した者が偉いわけではない。所詮は偶々なのである。それが証拠に、それを予測した奴だって、数限りない間違いを犯しているはずである。

 

その語彙は正確ではない、それではいらぬ偏見を生む。それも正しい指摘だろう。しかし、この世の中には炎上させなければ衆目を集めぬものが幾らでもある。

 

だとすれば、こういうものも、世間の注目を集めるためのプロレスであると解釈して何も悪くない。だってプロレスだもの。シュートもあれば、出来レースだってする。