教諭が2生徒殴る 頭縫うけが

この教師の間違いは物理学の勉強が足りなかったことだろう。

 

クリップボードで叩く時には平らな所で叩くのと角で叩くのでは、当然ならが圧力が違う。しかも角はスチールなどで補強されているから、頭が切れたということはかなり鋭利な部分が強く当たったという事だろう。

 

この教師の落ち度は角で叩いたことであって、他に責めようは幾らでもあったはずである。正座だって膝を壊している人に対してやったら更に悪化させ障害の原因になる可能性がある。

 

そもそも論で言えば、本当に体罰で罰するしかなかったのかという話がある。折角の修学旅行だし、怒ってさっさと終わるなら、殴っておしまいという手段もあるけれど。

 

本当にきついのは長時間、ねちねち責める手法である。警察だって、容疑者を確保したら一か月でも二か月でも、違法にでも拘留して、ねちねち責め上げる。それに抗える人はそうそういない。いたらその人は革命家になれる。

 

米軍が実施した結果から、拷問が実は思ったほど効果が得られない事が分かっている。それは、拷問で情報が得られないというよりも、恐らくだけど、拷問という手法があるという安心感から、情報を持っていない連中もかたっぱしからしょっ引くようになるからだと思う。

 

使う側が安易に走り始める。数撃ちゃいつかは当たる方式は、確かに方法論のひとつではあるのだが、拷問とは相性が悪いと思われる。もちろん効率も悪い。それでも採用するのは他に手段がない、または別の手段より結果早いという場合に限られる。

 

いずれにしろ、体罰の目的は『印象に残す』ではないか。後から思い返して、そういう事があった、という印象は、後から考え直す、立ち止まれる場所、振り返れる、道しるべの役割を残す。

 

そういう意味では確かに体罰は要らないと言えば要らない。言語で追いつめる手段は幾らでもある。そういう快感を教師はもっと開発するべきだ。自ら言語化させ弁明させる事は、かなりきついものだ。

 

「なぜお風呂場で遊んだ?」

「面白かったんです。」

「ここはお前の家か。それとも違うのか。」

「私の家ではありません。ここはホテルです。」

「ホテルには他の人もいるということを知らなかったのか。」

「いいえ、知っていました。」

「他の人がいるにも、騒ぎまくっていたのか。なぜ?」

「面白かったんです。」

「他の人の迷惑になると考えられなかったのか。」

的な問答をひたすら繰り返す。泣いても終わらない。

 

「今、私は君が取った行動の説明を聞いている、泣いたから答えなくていいということではない。」

ごめんなさいという謝罪も受け入れない。

 

「謝罪をすれば許されるとどうして思ったのか。君は自分の行動についてみんなが納得するまで説明しなければならない。第一、謝罪すべきは私にではない。」

 

気分はもうジャックマッコイ!