自民議員の育休宣言に苦言=「歳費減らず違和感」―岡田民主代表

政治家というものは、国のためなら朽ちて倒れても構わない所がある。その覚悟がないものが政治家であってはならない。故に政治家は公人とされ様々な特権を有する。

 

その特権の代わりに、仮に国家の危機において、政治家の命で片が付くなら、本人がどれほど嫌がろうとも、国家にその命を捧げさせるのである。戦争裁判などその端的なるものだ。

 

さて、育児休暇で育てられた子供は、ほぼ間違いなく、その政治家の地盤を引き継ぐ。後継者として立候補するだろう。盤石な組織で挑む民主主義において、余程の瑕疵でもない限りは再選は固いのである。これは、民主主義という名前を語った禅譲であろう。

 

もちろん、この制度は民主主義だが、それを担ぐ地域の心情としては、おらが村の代表であり殿様である。民主主義の良い所は神輿を担ぐ主体が市民にある。二世だろうが三世だろうが構わないが、使えない殿様なら挿げ替えられるのだ。ある意味、二世、三世とは地域が育てた後継者である。

 

さて、政治家とは地域を代表するものであるから、何があろうと代表たりえなければならない。よって地域の代表としての声を中央に届けるならば、国会など休んでも構わないのである、これが支持者の本音であろう。

 

国会など形式的な儀式に過ぎない、という考えがあるから、育児休暇が認められる事になる。もちろん、女性の場合は、出産などで欠席する事がある。国会よりも出産の方が遥かに重要な事は間違いない。

 

所で一度生まれちゃったものを育児するのに、国会を休む事は妥当であるか。実質的に問題ないから誰も文句を言わないのである。しかし、育児します、その間、政治家としての仕事は一切しませんと言えば、これは地元が絶対に許さない。

 

つまり、この問題には国会の形骸化があるだろうと思われる。それが本音と建て前の間で動く事になる。さて、既に国会が形骸化しているとすれば、その機能は何が代理しているか、ということになる。

 

何が立法に欠かせられないか。まず官僚からの立法がある。これは行政側からの要望である。これは当然と言えば当然であり、現場で問題があれば、それを改善するために立法を必要とするのは運用上の必然だろう。

 

次に、経済界など団体からの働きかけがある。政治献金などのロビー活動がそれである。これは基本的に既得権益の確保と言える。

 

しかし、社会の変革や問題は行政だけが見つけるものではない。行政が見落としたり、切り捨てた問題に対処するために、次にNGOなどからの要望がある。これは世論による圧力が必要であって、マスコミが重要な役割を果たす。

 

ここまでは既得権益や既存システムの保守のようなものであって、時にそれを悪用して自らの利益のみを追求する竹の字のつくクズな経済学者がいる。

 

こういう連中から見れば、既に世の中の連中は農奴なのである。かつて農奴とは貴族が領地を所有し、多くの労働者は、この農地に住居する形で存在していた。労働力がどれほど自由であれ、収益の基礎となる領土を持っている貴族は盤石だったのである。その結果として、圧倒的な資産を保有し、労働者を奴隷状態で使役する権利さえ有すると錯覚する事になったのである。

 

これと全く同じ事ががいま市場で起きている。かつての貴族が持っていた領土の変わりになるものが労働市場である。労働市場を持つものが貴族となり、使役されるものが農奴になる。竹の字のつくクズはそういう経済システムを目指しているのが明らかだから、18世紀以前の中世に戻ろうとする愚者なのである。

 

しかし、近代において、格差や貧困は、中世のような農奴を作り出さなかった。それは情報の流通度や組織性の違いだと思われる。そのような状況において近代ではだいたいがクーデターが起きるのである。

 

維新というのは日本の歴史上でも殆ど奇跡のようなもので、あれの本質はテロリストの集団である。藩を上げてのテロリズム、よく言ってもクーデターである。つまり、いま維新とか叫んでいる連中は、まぁその性根にあるのはテロリストのそれと同じであると断言してよいだろう。

 

しかし、テロリストの何が悪いという主張は全くの正当であって、国破れて国が滅び、国から追放されたり国を捨てた、国家を持たない人々の闘争をテロリストと呼ぶのであるが、貧困や格差の中からナチズムが生まれた事も忘れてはならない。515や二・二六事件も同じ。

 

特に若い人たちが政治に関心を持ち出す事は危険信号でもある。彼らの情熱がひとつの渦となった時、それはもう正しさも誤りも関係しない熱狂になる。その流れに抗う事は難しい。状況は危うい。どのようなクーデターも革命も若者の支持なくして成立しない。同様に、クーデターの後に、数多くの血が流れるのはフランス革命の例を待つまでもない。

 

明治維新が余りに上出来過ぎた。あれがもう一度成功するなどと考えるべきではない。あれはもう、奇跡と呼ぶべき歴史上の傑作だ。ひとつパーツが不足したり、タイミングが一日ずれればどう転んだか。明治の10傑が如何に優れた舵取りをし、如何に幸運であったか。

 

次も幸運である可能性は極めて薄い。