三吉彩花&古畑星夏「Seventeen」卒業を発表

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エマニュエルドットによれば、ある年齢に達した子供を独立させる家族体系(核家族型)は、アメリカやイギリス、フランスが該当し、その時の資産分配が兄弟間で公平であるか、どうかで更に分類できるそうである。

 

家族のようであったと例えるが、もちろん、日本型の家族は年齢が一定以上に達したからといって追い出すことはしない。その点では欧米型とは異なるのである。

 

日本は一般的に終身雇用によって雇用を確保する共同体型企業が経済的な強みであった。これは一生の面倒をみる代わりに給料は少なく、また、転勤などにも従順であってくれる低コスト型の構造であった。

 

竹中平蔵というバカが個人的欲望(雇用環境を弱体化し、労働者から搾取する目的)のために、これらの構造を改革しようとし、小泉に声をかけた。小泉は更に輪をかけた愚者であったため構造改革の一言で日本を席捲したのである。たかが個人的な郵政への恨みつらみを晴らすために遂には日本という市場を弱体化してしまったのである。問題は、それが来るのが早かれ、遅かれそうであったのか、という話である。

 

一方で昔から、弱肉強食というか、フレンズ(野生という意味)な労働環境があって、芸術、文芸、漫画などはその典型であろう。ある意味で、社会に適合できない変態どもの集積場であって、ジブリなんか素敵とか言っちゃいるが、宮崎駿なんてのは変態界の変態、帝王みたいなものであって、本当は日陰者でなくちゃいけない。という事くらい本人だって自覚しているのである。

 

孰れにしろ、若さと美貌で勝負にでた彼女たちも、時間の経過からは逃れられなかった。それはごく当たり前のアインシュタイン相対性理論勝利である。

 

卒業というが、ようは体よくばばあはもういらね、という契約終了なのである。もちろん、彼女たちの人生がそこで終わるはずもなく、次には次のステップがある。だが、老女の雑誌がさほどないように(現在はまだ)、年齢があがるほど、ピラミッド状になっている。

 

そこには生き残りをかけた新しい戦いが彼女たちの前に立ちはだかっている。こういうとき、僕たちはあの歌を思い出す。そう、きらきらと。涙ながらに歌うあの歌を。

 

きらきらと魚たち泳いで行く、冷たい水の中を泳いでゆく