ハミルトン「F1予選モード禁止はメルセデスの速さを奪うための策」

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ルールで許される方法で有効ならば採用しない事はありえない。これが競争を激化した場合の結論であり、それゆえに彼らはルールの細目まで十分に読み込む弁護士の目を持つ。当然ながら、ルールのグレーゾーンについては真剣に練って、ボーダーラインを明確にしようとする。

 

この対話は、力強さは、当然ながら「フェア」という概念とも「公平」という概念とも「平等」という概念とも少々異なる。全員の目的はその達成にはないからだ。

 

では何に対する不平等かといえば、結果に対する不平等であって、資金、技術、人員が異なるチームが集まって競争する以上、自由にさせれば必ず一人勝ちするのが当然なのだ。そういう一人勝ちで喜ぶ低俗なメンタリティはジャイアンツだけで十分で、普通の開催者は面白くないと考える。

 

結果が明白であるとは情報が明白という事である、つまり情報エントロピーが小さい。そしてそれは退屈である。そうでないなら、そこに何等かの歪んだ心理的要素を投入しない限り、理解不能である。

 

西洋人はルールを都合よく変え、そのルールを遵守する事に価値を置く、というのはノルディックスキーで日本人が理解したのであるが、実際にルール変更されると日本人の圧倒的勝利は激減した。当然だが、ルール改変が効果的だった証拠であって、これで各国に勝利する可能性が出てきたので全体は、特に本場は活気づくはずである。

 

一人勝ちは何かがおかしいというのは、逆に言えば、自由競争をすれば最終的には一人勝ちに落ち着く。これが原始以来、歴史上で王が誕生した競争原理であるし、しかし、最終的に一人勝ちした国家も王も生まれなかったのは、地球の広さに対して、各地域で起きる事象が時間的遅延をしていたからであったろう。

 

どこかで強力な王が生まれてもそれが征服をする間に他の地域では対抗する勢力が生まれる余裕があるし、その地域にかまけている間に、別の場所では内部崩壊も始まる。

 

Internetがもたらした世界の矮小が、多くの点で独り勝ちを可能としている。時間的遅延を起こさないから、アメリカ大陸で優位であった事が翌日にはアフリカ大陸にまで波及する。今のままの自由主義がそのまま続けば最終的に誰かが一人勝ちする。

 

恐らく中国が焦っているのは、そういう理由なのだろう。確定したらもう取り戻せない、そういう焦燥があるのではないか。

 

いずれにせよ自分たちに都合よくルールを変えるのがヨーロッパ式であるが、そして、そのは往々にして私利私欲のための改変であるが、それが参加者全員にとってのフェアの信念に基づいて行われているものであって、その禁止は一人勝ちする理由に依拠する。

 

個人の才覚であるならそれをルールで封じ込める事は出来ない。恐らく、その程度の個への尊重はする。しかし、組織となるとダメだ、そういう考えだろう。資金の違いが勝敗に直結する事は避けねばならない。下克上、ジャイアントキリングこそ、スポーツの醍醐味ではないか、という話だ。

 

よって金持ちしか使えない戦術は嫌われる。またある特定のグループでしか有利にならない戦術も嫌われる。公平性とか平等は、ずうっと人間が重視してきた価値観で、それは時代によって変わってきた。

 

なぜ不平等を人間は嫌うか、人間には元来得損についての明敏な感覚が備わっている。その感覚が、飢餓などから命を救ってきたと思われるし、その感覚が数学を発展させたとも思われる。

 

しっかりと分析してルール改変をした以上、それが影響しないはずがなく、それを乗り越えるのはほぼ不可能とみるのが妥当だ。そして、それが個人的能力でどうにかなるようなものではないからルールにまで組み込んだはずなのだ。

 

それほど持つ者たちと持たざる者の有利不利が圧倒的だったという事に違いない。それくらい圧倒的である事を嫌うのに危機感を持っているのだと考える。ヨーロッパがかつての圧倒的な地位からずり落ちているからこそ、そういう視点に明敏なのではないか。