「グレンダイザー」50年ぶりアニメ化 キャラクターデザインは貞本義行さん

grendizer-official.net

 

鉄人が戦争中に間に合わなかった最終決戦兵器という設定であったように、マジンガーZは負けた戦争の反動としての、メカニックによる、言わばアメリカ軍を全て駆逐できる技術的結集としての存在があった。

 

早い話が沖縄戦にこれを一台投入できたなら、沖縄が陥落する事はなかった、そういう意味合いが通奏低音にある。ではマジンガーが原爆の炎で焼かれたらどうなるのか、この矛盾はその後の時代を生きる人の宿題である。

 

この流れの中でマジガーが敗北する事は戦争の敗北と重なるのが自然であって、それがグレートという形で次に蘇るのもまた自然である。敗北した所から再び立ち上がる隠喩としてのグレードは存在であったが、グレードはあくまでも代理であったため反感もあった。

 

だからグレートの最終回に近い所では負けた当人である甲児が、代理としてのグレードと超えて、勝負し勝利する必要があった。鉄也の勝利だけでは駄目だったのである。

 

この流れで言えば、グレンダイザーとの間には断絶がある。だから日本ではテーマの内在が希薄なように感じられる。そもそも大介が宇宙人(地球人でない)である。よそ者である。一般的にはお隣に住む外人という感じであろう。

 

海外との交流で日本にきた外国人のような存在に近い。故に主人公としては思い入れる場所に弱い所があった。それでもあれだけの人気であったのには富山敬の力も大きいと思う。

 

所が海外ではその方が良かったのかも知れない。なぜか爆発的人気を得る。グレンダイザーのバックボーンである滅亡させられた王の末裔という設定が、強く感情を揺さぶったのだろうか。この辺りはスーパーマンとも通底しそうな気もする。

 

いずれにしろグレンダイザーは帰る場所を失った人が新しい場所で生きる物語であるから、それは今の時代では難民や移民の物語と重なる。幸福にもたまたま助ける力があって、それが作品を支える。しかし、根本には何も義理もないのだから、世が世なら攻める側であってもおかしくない。そういう不安も内在しているはずである。

 

だからグレンダイザーは文法的にはマジンガーと互換性はない。兜甲児がいなければ同じシリーズとはいえ一切の繋がりを持たない。という事は、そこに何らかの繋がりがあって、どのような繋げ方をするかは甲児が担っている。その繋げ方次第でこの作品はどうとでもなる。しかし、それ故にだろうか。人間関係がグレート以前と違って、とても家族的な感じが強く、その辺りも作品の独自性になっている。

 

フランスの人にしろサウジアラビアの人にしろ、どこにそこまでの共感性を持ったのか。恐らく日本人には理解できていない部分があると思われる。優れた作家たちの完成度の高い作品とは言え、その何かは極めて偶然的だったと思う。そのような奇跡がリメイク作品にも込められるか、大変な作業だと思う。

 

フランス哲学には何となく他者というものを感じる。これはフランス王朝を自ら破壊し、その後の殺戮を経験した歴史のせいだろうか。自らを他者としてして追放したような所があるのだろうか。ナポレオンに裏切られそれでも親愛を感じる心性と何か関係があるのだろうか。

 

カミュの不条理、サルトルの実存、その根底に近代人が何気なく感じる共同体への不信とか、消失、虚無感というものがあるとするならば、グレンダイザーは、そういうものに対してのアウフヘーベンであったと解釈するのが相応しいだろう。

 

ナチスに敗れたフランスが戦勝国になったとしても何も失っていないとは考えにくい。常にイギリスとは違う考え方をするフランス。ならばグレンダイザーは、失った何かを取り戻すための作品だったのではないか。同様に鋼鉄ジーグに惹かれたのがイタリアであるのにも何かが潜むと考えたい。

 

グレンダイザーにはメカニックに自分たちには理解できない力があって、その所有者であり他者でもある主人公と社会との繋がり方が新しい。そこには絶対的な信頼関係がなければ成立しない関係がある。

 

もし大介が地球を憎んでしまえば簡単に敵になってしまう。それがなぜ信じられるのか。この問いは、自分はデュークフリードなのか、それとも兜甲児なのか、この構図に、何か希求的なものが潜んでいるように思えてくる。

 

もし彼が地球の独裁者になりたいと願えばどうなってしまうのだろう。