ダイハツ本社に国土交通省が“異例の態勢”で立ち入り検査 全車種が出荷停止…衝突試験やブレーキの試験でうその記載 “認証不正”の影響広がる

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TBS NEWS BIRD

 

三菱自動車リコール隠しが起きたのが2004。この時のイメージダウン、ブランド失墜は恐ろしく現在に至るまで20年間の長期に渡りこびりついている。三菱の傷物というイメージは抜きがたく、消滅した方がましではないかという状況の苦労が続いた。

 

ダイハツの関係者はこれをどういう気持ちで見ていたのだろう。うちもやばいと思っていた人が皆無とは思えない。本気でうちはちゃんとやってると信じていたかも知れない。企業トップが同様の問題がないかを調査せよと指示していなかったとは考えにくい。その何度もの指示を無視する形で報告書が上がってきたのだろう。それが現場の人たちの判断だったのか。

 

もちろん、自動車に限らず、多くの企業が不正や問題を起こしている。時に公害や毒物、環境破壊で莫大な被害を生み出す。それらの企業は潰れるのが正義と思われるが資本主義の原理は別の働き方をする。

 

チッソなどは未だに不誠実なイメージのまま当時の経営責任者たちはのうのうと天寿を全うした。この事件のおかげで未だに日本の医療関係者は国民の信頼を根底では受けていない。目先の利益のために企業側に有利な主張をするのが医療従事者であるという不信はこの事件で徹底して植え付けられた。これは未だに払拭されてない。

 

森永はヒ素問題を起こした。今もそれを理由に森永の製品購入を控える人は少ないだろう。しかし森永の対応は決して褒められるものではない。どちらかと言えば、今も非難軽蔑されるべきである。それが信用回復できたのはなぜだろうかと考えてみる。どうも公害被害者救済事業に誠実に向き合っているくらいしか思いつかない。それが大きいのだろうか。記憶は都合よく上書きされる。

 

ダーク・ウォーターズ 巨大企業が恐れた男」も実話に基づく映画である。起訴大国であるアメリカでさえ大企業と戦う事は難しい。資本主義は金で不正を覆い尽くすシステムを備える。正義とは何か。

 

沈まぬ太陽も企業腐敗に対する面白いドラマであった。

 

VWは2015に排ガス不正を行い3.5兆円の罰金や制裁金を支払ったが、不可避と思われた倒産には至っていない。今でも世界のトップに位置づくメーカーとして存在感も競争力も確保している。不正発覚後の未来は不思議な何かに左右される運命じみた所がある。

 

その日産もまた完成品出荷前検査で不正(2017)が発覚する。もちろん、不正をしていたのは日産だけではなく、全てのメーカーが多かれ少なかれ同じ問題が表出した。

 

「不正はよくない」という言葉は正しい。しかし、不正の定義を正しくしなければ意味がない言葉でもある。意味のない検査もある、それをしない事は不正には違いない。意味がない事をしない事は不正である。ここに問題がある。

 

検査を廃止する手順がある。どういう手順かを知らなければ、それを怠って検査をしなければ不正である。世には絶対に必要な手順を廃止しようとする人もいる。我々は信用で成り立っている。

 

だから日本は問題と向き合わない。これは強靭な自然環境が培ったきた国民性かも知れない。何かが起きた所で、失われる事はない、再び自然は復活し緑で覆う。そういう素朴な信仰が根底にある。砂漠の民とは違う自然観に基づく。それがあらゆる問題への取り組み方の基本的なスタンダードのベースとなっている。

 

三菱自動車は日産傘下に入った。タカタはエアバック問題で倒産した。それでも経済界は揺るがない。実際にダイハツは他社の顛末をさんざん見たはずである。検査不正はダイハツでも発覚しているのである。

 

その間もこの不正は隠し続けなければならないと思っていたのか。それともこれは正しいやり方をしており不正であるという認識はなかったのか。現地から上がってきた報告書に瑕疵はなかった。もしあるなら現場が勝手にやった事だと言い切るつもりか。よく分からない。

 

どのような現場にも絶対に譲ってはいけないものはある。逆にここは適当でもいいというものもある。例えば社内検査には何の法的根拠もない。しかし、ここにこそ、自分たちの製品への信頼の全幅が掛かっている、ここさえしっかりやっていれば大丈夫だと言う考え方もあって、それと比べれば法定検査などざるで問題ないという考え方もある。現場の判断だ。

 

認証取得で嘘はだめだろうという気もする。それで押し通せた理由も分からない。ダブルチェックはないのか、複数の検査で再確認しないのか。自分たちの製品の品質保証をどこで確保するか。それは企業毎に、文化や思想の違いがある。違いこそあれ、要点を抑えておくという考え方は共通している筈である。そこでは手順、手続きさえ守っていればいいという発想はないはずで、手順も手続きも常に刷新し続けなければ陳腐に廃れてゆく。

 

そういう集合が今の日本経済の姿なら、無駄と言われるものの中にどれほどの慣例が潜んでいるかという話もある。官庁の規制が膨大でその割に意味がないモノばかりなのか、それに対応するために原価の半分を使用している可能性もある。

 

だからと言って、規制撤廃すればいい訳でもない。官庁だって無駄なものは取り除こうとするはずである。なぜかそれが出来ない。固まりすぎていて、ひとつを外すためには全てを刷新するしか手段がないのかも知れない。全体の見直しなど戦争にでも負けない限り、不可能だったのである。

 

どれが必要でどれが不要か、誰が見極めるのか、この肝心の問題をおざなりにして、経営者の効率化の標語に踊らされてどうして問題が解決できるだろう。自分たちの懐に金を入れる事を上手くやろうとする者たちを利するだけであろう。

 

馬鹿になったのだ、と言えればどれほど簡単だろう。ダイハツのような大企業でさえ、止まる事も軌道修正する事も出来なかった。昨日と同じ事を明日もする、この輪廻から抜け出す事は難しかった。

 

所詮はもう少しの勇気があれば、に結論されるのだろうか。義を見てせざるは勇なきなりとはこういう事であろうか。だが勇気だけで解決するような簡単な話とは思えない。

 

ではどうすれば良かったのか、と何度も思い返すだろう。その上で、何も答えがない。発覚しない限り、立ち止まれなかったのだ。ならば我々の世界は常に社会からの監視を受け入れる窓口を持っている方が望ましいのか。オープン化が必要なのか。

 

これは過去のツケを払うという問題ではない気がする。この問題はたかが企業一社の一過性の問題ではないようと思える。この発覚はある意味ではとばっちりだ、タイタニックに当たった氷山である。闇夜には見えぬだけでごろごろと氷山が流れている。

 

34年前、1989。バブル崩壊前夜の頃。この34年間、特にダイハツの車に欠陥的な事故や問題がない事を社会実験し続けてきた。その結果としてダイハツの製品にそう大きな不満や瑕疵があったと聞いた記憶はない。

 

そう考えるとこの事件の闇は深そうに見える。医療過誤が公害のような被害者が大勢いた訳ではない。これに起因した死亡事故がないとは言えないが、どれくらいの数であるか、おそらく統計的に異常に突出したはずはないのである。ならばもっと前に誰かが声を上げていた。保険料を見れば一目瞭然のはずだ。

 

この世界には許されない不正と許される不正が混在している。それは企業のみならず、一企業内の部署内にも、個人の中にまで混在している。政治家の不正も発覚し、ダイハツの不正も発覚し、ビッグモータの詐欺的業務が発覚し、損保などの不誠実も発覚し、日本企業が自ら倒壊しつつある気がしてくる。

 

何かがおかしい。この不確かさを分析するには自分の力不足である。