小6女児自殺 学校側が両親に調査結果説明

どちらのサイドに立つでもなく、微妙な問題になるほどマスコミは公平になる。先の大戦で、戦争協力したことによっぽど懲りたと見えて。


マスコミというものは、微妙な問題になればなる程、平等の建前を堅持する。所が世の中には絶対正しい事も、絶対に間違っている事も幾つかの例外を除けばない訳で、だからと言って、微妙な問題以外では彼らは正義の御旗のもと強烈に賛歌する構図はあの頃と変わっている訳ではない。

 

マスコミの本質を問えば、新聞であれば、紙面を白いまま発行しない事、テレビやラジオであれば、無音を続けない事、音声を途切らせない事。映像を流し続ける事。

 

属に言う”尺”というやつで、これを埋める事が第一の仕事であり彼/彼女らの絶対正義である。

 

その次が、誤った情報を流さない事、平等である事、公平である事、であるが、これはそうでなければならぬのではなく、そうでなければスポンサーの支持を得られない事に起因する。彼らには、もともと、それを判断する能力も資格もないと思われる。

 

報道とは、大衆に情報を流す事であり、問題の発掘は出来ても、解決する資格がある訳ではない。まして能力があるなどという事はない。

 

だから、世論がどう反応するか、それを受けて政治がどう介入するか、そこに希求するのである。社会の問題に最終的にコミットメントする資格を持つ者は、だた政治があるのみ。NPOには言及しないでおく。

 

つまり、本質的にマスコミはその存在理由からしても「いかがかと思いますよ」としか言えないのである。

 

この事件に関してマスコミは真実を掴んでいない。現場の記者は嗅覚鋭く当たりは付けているにしても、当人でなければ誰にも本当の真実は掴めない。

 

いじめと自殺の因果関係は認められない。

 

当然である。教育委員会にしても当たり前で当人がいなければ分かる訳がない。因果関係を説明できる本人がもういないのだ。

 

あるかも知れないし、ないかも知れない、のだ。それを認められないというのは恣意的である。責任回避不可避である。

 

だから、ここからは状況証拠だけで固めてゆくしかないのだけれど、もちろん、状況証拠は厳密には証拠足りえない。自殺が真実が全て闇の中になるのは、政治家の秘書だけの話ではない。

 

では、このケースは、このまま闇の中か、というと、それは許されない。多くの人の関心があるニュースだし、実際にマスコミも動きがある度に報道している。これは彼らなりに追及している活動ゆえ、である。

 

何かがおかしい、この嗅覚はやはり鋭い。それだけが生存戦略である。マスコミの最強の武器はペンなどではない。断じて。

 

このニュースではマスコミの追及が弱いのではないか、という感じがする。世論を背景に追及しようとしたいのか、それtも現在は世論を形成しようとしている時期なのか。

 

そういう嗅覚から、ある時期から彼らは豹変する。彼らの情報を流通させる仕事は、社会にとっても重要なものである。それは血液にも例えられるだろう。物流は物を運ぶがマスコミは情報を運ぶ。情報の物流である。

 

 

そこまではいい。しかし、彼らは警察の逮捕があると豹変する。錦の御旗を手にした官軍の如く。マスコミは社会的正義により豹変する。

 

それは、損害賠償の心配のない事柄に限定される。警察という権威に全力で飛び付く。カエルか?

 

例えそれがただの幻影に過ぎないとしても、あの戦争と同じ構造の中にいるとしても。知ってか、知らずか。ただ、売って、売って、売りまくれ、と部長が怒号している。のかも知れない。

 

それでもマスコミは自発的には動けない帆船みたいなもので、ただ社会的正義という風に任せて世論という神の啓示が下りてくるのを待っているのが実情だろう。善悪を全て外部に発注している訳で、その態度は気にくわない。

 

新聞で日々変わるのは、囲碁と将棋と株価欄だけである。新聞社は社説で解りやすく自分たちの立ち位置を提供する。またはその演技をする。

 

情報の流通だけであれば、社説は不要だし、神の啓示を待つ必要もない。記事だけで新聞を売るのが難しかった時代は、社説は啓蒙な意味合いを持っていた。

 

今ならば恐らく要らない。現場で取材している記者のtwitterの方が余程切迫している。名も知らぬ匿名のブロガーの方が余程に切り込む。

 

社説よりも深かったり多岐にわたるブログ、事件に関する基本的な考え方を提示するブログ、そういうブログを漁って探し出す事が欠かせない。

 

そういうものとネットワークする事が今後、新聞やニュースに求められる事ではないか。腐っても新聞である。情報ハブとしての役割を担う必要がある。鰯の頭でもテレビである。リアルタイムに映しだす力は今も健在である。

 

建前からしか書き出せない新聞であるが、多くの流れやうねりがインターネットで起きている時代に、紙や電波という媒体だけでは対抗しえまい。大衆からコンテンツへ、ステージは変わりつつある。

 

例えどのような媒体であろうと、情報発信基地という役割がこの世界から消える事はない。