ツイッターの次のメディアとは?

人間の脳細胞は1000億個くらいあるらしいので地球上の人数では足りぬのだが、それでもtwitterに参加している1.1億の一人一人を神経細胞に例えれば、twitterのフォローは神経細胞シナプスと見做す事ができる。

 

これらシナプスの形成は、意識と無意識を作り出すだろうか。

 

何億人かのつぶやきは、それぞれの神経細胞が活動電位を発生させている事にモデル化できる。活動電位(つぶやき)は、ごく限られた範囲にしか伝達されないが、時にバズる事もある。それらが、意識と無意識の区別を生み出すだろうか?

 

ここでいう意識とは、他の生物の事はややこしくなるので横に置いておく。話を簡単にするには、乱暴だが地球の意識とそれを見做す。

 

twitterから意識と呼べるものが生じるとすれば、それを地球を生命の一つとした時の意識と同等に扱う訳だ。

 

では、twitter上に形成される意識は、どういうものになるだろう?例えば無意識ならば想像しやすい。無意識は、てんでバラバラに起きているつぶやきそのものであり、これらは、地球の意識になる前の混沌という感じしかない。

 

それらの意見から捨て去る、捨て去らないの取捨選択が行われて、地球の意識と呼べるものを形成できたとする。多くのtweetのうち、RTされて残った意見を意識として見做す。それが本当に正しい意識であろうか?

 

それでは地球を代表する人(あるいはグループ)のつぶやきが意識であり、それは多くの人に認知されている人の個人の意識ではないか。それだけ、脳細胞を代表するひとつの細胞があるというモデルになってしまう。

 

意識の配下には多くの無意識があり、それをフォローしていないためにその声が聞こえなかったり、RTされて届くのを待っていたりする。

 

マスコミで紹介されるtwitterの声は、その意味では意識化と呼べるであろうか。RTされる過程で最初のつぶやきは多くの人に共有されて色んな人の意識を変えて行っている可能性はある。

 

この繋がりかた、つぶやきのフローが何らかの意識を生み出そうであるが、だからといって、全ての人をフォローした日には膨大なつぶやきでTL(タイムライン)は破綻する。

 

ならば意識とは全体の合計ではあるまい。意識では何であるか、と考えるモデルとしてtwitterは面白くなるかも知れない。

 

地球全体をtwitterというシナプスで覆わなくても、一人一人のフォローとフォロワーという考え方は、脳の活動の疑似体験と見做せるのではないか。

 

記憶の外部化がパソコンだとすれば、シナプス回路の外部化がtwitterではないか。入力と出力と回路形成のモデルだろう。