尖閣映像、誰が何の意図で 流出元は謎多く

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マイケル・サンデルの白熱教室で忘れられないのが、

We live some answer to these questions every day.

私たちは毎日これらの質問に対して答えながら生きているからだ。

 

さあ、ここに君たちに一つの質問をしよう。

 

ある事件の映像を海上保安庁の職員が公開した。これは、政府が公開する前にその職員が勝手にやったものだ。

 

だから問題はこうなる。

 

彼は彼の正義に従って公開した。
だが、この行為は道徳的に許されるのかどうか。

という事だ。

 

これを少し抽象的な次元に持ち上げるなら正義と道徳が一致しない事があった場合に我々はどちらを選ぶべきべきだろうか、という問題になる。

 

はい、その君。

私は正義を貫くべきだと思います。今回の政府の中国に対する弱腰に不満を持つ人は多いです。その政府が非公開とした時、これを咎める事は、正義だと思います。

 

この行為を正義であるとする理由は、彼自身が言っているとおり、これを見る権利が国民にはある、という事です。

 

情報公開を訴えて政権を奪取したのにこれを隠蔽する様では正義とは言えません。

 

ひとつの代表的な意見だね、では政府には非公開にするちゃんとした理由があったとは考えられないだろうか?例えば中国との外交問題が更にこじれるのを避けたいとか、経済制裁を受ける可能性を外すために、というような。

 

私は、経済制裁を受けようとも政府が弱腰である事は許せません。

 

しかし、それが君たちの選んだ政府だよ?

 

私はその政党には投票していません。

 

なるほど、どの政党に投票したかどうかは、その政府の政策に何の忌憚もなく反対できる権利を手にしたとも言えるようだね。


では反対意見は...?後ろの君。

私は、公務員が政府のやり方に不満を持つのは構いませんが、不満だからと言って勝手に公開する事は、テロやクーデターにも匹敵する行為だと思います。

 

このような公務員の道徳に違反する行為を正義の名の下に許してしまえば、国が成立しなくなるのではないかと危惧します。

 

今回の彼の行為を正義と認めても構いませんが、このような反道徳的行為が続けば、
次、その次、またその次と政府に反感を持つ者が勝手に行動をしてゆく事になる。それを政府が認める事は許されないと思います。

 

次に政府に対して行動する者が、本当に正義の名に値するかどうかは誰にも分かりません。私たちの国には正義の名のもとにクーデターを起こした歴史があります。

 

彼の行為は道徳的に問題であるというのだね。

 

ええ、政府が非公開、または、保留中の事項を組織が勝手に公開するようでは、組織が成り立ちません。国家公務員の道徳として見ても問題だと思います。

 

 

これに対する反論は?

515事件は確かに反乱ですが、それを言えば明治維新だって時の政府への反乱です。反乱である事が必ずしも道徳的にも間違っているとは言えないと思いますけど。

 

はい、君。

民主主義のもとでは選挙という方法で政権交代の形で変革を進めればいいのであって、それ以外の反乱を認めるべきではないと思います。

 

なるほど、難しい問題だね、そこの君。

昔、吉田松陰という人が当時の規則を破り、アメリカに密航しようとした事がありました。当時は死罪となるような事件です。しかし、その法律を破ってまで渡米しようとした松陰の魂は、その後の倒幕の流れを作りました。

 

例え法を破ってでも正義の為に行動しようとする者を止める事は誰にもできないと思います。咎める事も難しいのではないでしょうか。結局、松陰は死罪になりましたけれども。同じように罰は受ける事になるのでしょうが。

 

なにか、反論はあるかね。

はい。先の大戦において、関東軍中央政府の方針を無視して満州国を建国しました。この時の首謀者、石原莞爾を始め、暴走した軍部を厳しく処罰をしていれば、と思います。

 

それが出来なかった為に陸軍の暴走は続きました。関東軍の暴走は梅津美治郎が果断に罰則でもって止めました。政府に従する者、厳罰なかずんば、第二第三の造反者を生みだすだけです。

 

つまり、君たちが言いたいのは、彼を処罰すべきか、どうか、という事かな。それは、正義と道徳のどちらを優先すべきか、正義とは道徳に基づく行為なのか、それとも、この二つは異なる側面を持つものなのか?その答えにはなっていないように見える。

 

更には今回の行為は正義なのか、正義ではないのか、道徳なのか、そうではないのか、それをどう決めればいいのだろう。

 

正義とは何に基づく行為であり、道徳とは何に基づく行動なのだろうか?そういう話をプリンシプルに掲げなければ、彼への処分も語れないのではないと私は思うのだが、どうだろうか。

 

罰したとしてもそれはただ法を犯しただけという事になってしまう。それでは彼の心もまた政府の心にも辿り着けないのではないだろうか。


はい、そこの君、君の意見は?