ネアンデルタール人は異種交配で絶滅?

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現生人類は、ネアンデルタールネオテニーかも知れない。wikiの骨格比較をみているとなんとなくそう思える。

 

競争に負けた、寒冷に耐えられなかった、など諸説あるが、交配によってある種が別の種に取り込まれるという話は新鮮だった。

 

が、こういう交配からどちらかの種が消えるのは研究者の間では良く知られた現象みたいで、こういう話には、単なる生物の行動形式に留まらずその人の価値観までが投影される。

 

滅びたと言われればネガティブな気がする。食肉として狩られ尽くしたのであれば敗者という感じがする。だが交配によって我々の遺伝子の4%はネアンデルタール由来である。こうして遺伝子は垂直にも水平にも交雑してゆき新しい形が生まれ遺伝子のプールは豊穣になってゆく。

 

チンパンジーとは98.8%(1.2%)を一致する。ネアンデルタールとは99.7%(0.3%)が一致と言う。一致する4-0.3=3.7%が混血により獲得したという事か。ならチンパンジーからは4-1.2=2.8%が太古の混血により獲得とした事になるのか。分岐後の獲得形質もあるので簡単には言えない。

 

外形は成人男性ではそれなりの違いも目立つが、女性や子供だと殆ど同じに見える。だから幼形と思われるのだが、その辺で生きている細菌と人類の遺伝子にも共通部分があるのだし、使っている蛋白質も似たり寄ったりである。

 

「遺伝子汚染による種の絶滅」といえば怖いように見えるが、要は単に雑種化して混血して混在しまくって区別が付かなくなったという事だろう。

 

ホモサピエンスネアンデルタールを統合したと言うだろうし、ネアンデルタールは人類の中で我々も生きていると主張するだろう。企業統合でも似たような話はよくある。

 

雑種化を遺伝子汚染と呼ぶネガティブな考え方もある。優性思想に亜流だろうがハイブリットと呼ぶとポジティブにも聞こえてくる。

 

だが、当の動物たちを見れば、何も気にしていない。食べるには放射性物質で汚染されていて危険とされる魚達を検査しようとするる横で魚達はとても元気そうに泳ぎ回っている。それを狙う鳥たちが飛び回っている。その風景を見ていると、それこそが自然な気がする。

 

漁を止めた海が魚で溢れ返ってくれればいいと思う。純血種という幻想は人類の病気だ。優性遺伝、劣性遺伝という言葉も優劣という印象と結びつく。こういう科学用語でさえ価値観と結びつく。

 

種の違いを超えて人種がある。黒ぶちの猫と白ぶちの猫の言い争いだ。在日朝鮮人の人たちに向かって差別的であるのはいいとしてもそれを罵っている当人が秀吉の頃に連れてこられた朝鮮人の末裔である可能性は高い。無知は時に愚かを超える。喜劇で終わればいいのだが。


それを罵る人は一万年前に朝鮮半島から渡航した人の末裔かも知れない。50年前に来たのはダメで、400年前ならいい、というのは理屈に合わない。背理法を使えばそれは矛盾だから真とは言えない。

 

春木屋の言葉である。

春木屋の味は、いつもかわらない』と言われるが、『変わらない』と言われるためには、常に味を向上させなければならない

 

人種であれ文化であれ一切の変化を止めたらどうなるのだろう。変わらずに存在するためには変わるだけの事だ。生命の多くはそれを受け入れている。

 

遺伝子組み換えだろうが、外来種であろうが、適用できるならありったけに適用する。その答えはこの世界が自然が淘汰してくれる。

 

交雑の仕組みは進化のメタファであろう。優生種に根付いた考え方は何時でも何処でも誰にでも内在する。それは人が比較に優れた能力を持つ動物だからだ。だがそれは適切に処理しないと我々の精神を汚染する。それは遺伝子と同じように伝染する。ミームである。それは放射性物質と同じように拡散する。

 

単にオリジナルであるから価値があるのか。ならばどれもこれもオリジナルには違いない。どの人類の遺伝子も同じ物はふたつとはない。一卵性双生児でさえメチル化など発現の仕方は変わる。まして後天的な脳の中のニューロンの繋がり方、発現性の偶然性も含めれば同じworkingはふたつとない。

 

日本というオリジナルに価値を持ちたいのは滅亡への予感があるからだろう。だが、滅亡とは何か。生き残るとは何か。いつまで生き延びれば満足できるのか。いつまで同じ姿なら満足できるのか。そういう人は藍藻でも目指せばいい。

 

遺伝子は不死を望まない。だが、人はそれを望む。我々の脳が不死である事を希求する。誰かが「考えるとは何かに価値観を付ける事だ」と言っていたが、本当は、考えるとは価値観を剥ぎ取る事じゃないか、と思う。