新垣結衣、胸元ざっくりワンピでオトナの魅力全開

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新垣結衣はリーガルハイの好演が記憶に新しい。このドラマでの存在感は抜群で堺雅人と共に欠かせない人だ。

 

彼女を初めてテレビで見たのは何年前か、高校生くらいの時だ。確かポッキーだろう。もちろん、かわいかった、そして今でもかわいい。

 

女性は歳の取り方は難しい。5年という期間でよければ存分に暴れてみせましょう、と言える人は幾らでもいる。しかし、10年、20年となると、やれる保証はありません、と山本五十六みたいな事を言ってるマネージャは多いだろう。

 

だいたい高校生の時にメジャーとなってそこからCM女王まで制覇したとしても30までは持つまい。ベーネミュンデ侯爵夫人の悲しみは決して他人事ではないのである。

 

30女性が女子高生の制服で出てきたら普通は引くだろう。なぜか年齢によって何かが変わっているのだ。生物の加齢はかくも残酷だ。爬虫類みたいにただ大きくなるだけならいいのに。

 

よって女性タレントはどこかで制服を脱がなければならない。ガッキーもそういうお年になりつつある。時は過酷だ。チクタクが止まる事はない。その日は刻々近付いて来る。

 

リーガルハイは当たり役であったが、ああいったもの以外の何が演じられるか。彼女のレパートリーは実に狭い。

 

特にかわいいと言われて(本人が否定的だとしても努力していたとしても)やってきた人は悲惨である。最近の芸能界はそういう人で溢れているし、制服をどう脱いだら良いか迷走する症候群で蔓延している。彼女たちは歌に流れず、バラエティに移れず、CMを主戦場として、本当に小さな世界の中で居場所を見つけなければならない。

 

24時間テレビのパーソナリティくらいしか出来ない、とさえ言える。森三中を何処でも何時でも誰とでも戦える米軍のシャーマン戦車とすれば、ガッキーは独軍のマウス戦車みたいなものである。

 

ここぞという時にしか投入できない決戦兵器なんて敗北する側の倉庫にしかないのが架空戦記の十八番である。

 

タレントなんて早い話、80超えた祖母を誰が見たいか、というのが建前としてある。これを打ち破った人は本当の意味に数少ない。黒柳徹子でさえ幸運と言うしかない。人生と同じように歳を重ねるにつれて先細りが待っている。

  • 相武紗季
     ナレーション等への転身を試行錯誤中だが厳しい
  • 長澤まさみ
     泣き演技は抜群に上手い女優だがそれ以外はどうか
  • 矢口真理
     ガヤ転身に成功したが、制作側におもねる作った演技感が何時まで通用するか
  • 石原さとみ
     コミカルな演技は抜群だがクチヒルの主力武装が何時まで通用するか
  • 堀北真希
     彼女が悩み始めるのはあと二年くらい先か
  • 前田敦子
     卒業というイベントにより彼女の転身は切迫した課題である
  • 広末涼子
     30は無事超えたがさて40の壁を越えられるかは今後に決まる
  • 宮崎あおい
     彼女は出演を極小にする事でタレント生命を引き延ばす戦術か
  • 仲間由紀恵
     コミカルさが飽きられた後、どうするのか
  • 上戸彩
     模索中だよなぁーと見る度に思う

 

これだけ多くの予備軍がいるのである。誰かは脱ぐだろう、という予測は立てられる。しかし、女優が「大人」と言えば脱ぐと発想するのは、勿論、日本の芸能界の土壌が砂漠化している証拠である。そこにどんなバイオームが形成されるか。

 

それは日本のドラマや映画を見ていれば分かる、ステレオタイプな人物像と薄っぺらな精神性、漫画や小説などを原作としてコミカルな演技しか求められていない。

 

高校生の可愛い10代、誰かと恋に落ちて死に別れる20代、ベットの上で胸を露わにする30代、おばさんで推理ができればいい40代、家政婦ができればいい50代、以上。

 

日本の女優にこれ以外のパターンがどこにあるか。彼女たちの不幸は、この国の娯楽産業の貧困さである。

 

彼女たちが大人へ転身するのにこれは仕方がない事である、マネージャたちも生き残りをかけて、知恵を絞っている。そして結局の所、無い知恵を絞った所で存分に知恵を傾けた所で大人と言えばエロしか売り物にならない。日本にはその程度の需要しかない。脚本の貧層さえ原因なのか現象なのか分からない。

 

彼女たちを突き詰めれば風俗嬢である。売り物は可愛い顔や体である、であれば、生き残り戦略は風俗嬢に類似する。それをトレースすべきだ。これも収斂進化のひとつである。

 

タレントであればテレビで存在感を示さなければならない、女優であれば、ドラマで存在感を示さなければならない。それはステレオタイプの記号化になると言う意味でもあり、オリジナルな記号になるという意味でもある。つまり己れの脚本を描けという事だ。

 

ひとつは自分自身が個たる人間であり、また商品でもある事を自覚する。精神の正常性を保つ為にON/OFFの切り替えや、精神的装甲の装着など、心理学の力を借りる必要もある。

 

他と異なる記号となるのに、脱ぐという戦略が必要とは思わない。だからあまり無理して大人な風なかっこうをする必要はない。出来ない事を出来る風にするのは見てて痛々しい。だが、彼女たちにそれを求めてくる人もいるのである。

 

そういう意味で女優はひとりでなれるものではない。スタッフにストラテジスト、エヴァンジェリストなどを含めて総合力で戦うべきだ。マネージャ一人でなんとかなる世界ではない。それではラスプーチンに頼ったニコライ二世になるようなものである。