現役世代「不幸とはいえない」=社会保障の負担と受益で―厚労白書

政府や権力が人の幸せを計る事は民主主義としては下の下である。菅直人が首相の時に「最小不幸社会」をスローガンにしていたが、不幸は定義しやすいが幸福は人それぞれで分からない、と言うのは気に入った考え方である。

 

誰が見ても不幸であり是正すべき状況はある。一般的に政治は問題を見つけてそれに手当する事であるから、問題を不幸という視点で見つめるのが正しい。将来の国を憂える、安全保障に不安になる、それは厳密に不幸ではない。

 

幸福について考えるなら生涯のお金の入出は欠かせない。入れば幸福、出れば不幸とこれは決まっている。ある額以上となるとその意味合いは小さくなるが、すくなくとも最低限の金というものは絶対にあるのである。

 

例えば幸せで言うと、若い時に原爆を受けて、家族と死に別れ、病気もしたり、それでも最後は大勢の孫に囲まれて今を生きている、という場合、幸せと不幸をどう見ればいいか。

 

幸せで不幸は埋められるのか。不幸は幸せを消し去る事が出来るのか。長い時間軸に幸せと不幸を一つのグラフ化できるのだろうか。波のように揺れてマイナス値なら不幸、プラス値なら幸せと示せるのだろうか。

 

それとも青い線が幸せ、赤い線が不幸となって二本の線が混じりながら揺れ動くグラフになるのだろうか。幸せと不幸が同時に来る事はないと本当に言えるか?

 

幸せとは喜びであり不幸とは悲しみではないか。それ以外の何をもって幸福の指標とするか。

 

今の老人は若い時は貧乏であった、お金もなく、丁稚奉公の経験をした人もいる。もっと前の時代には奴隷であった人もいる。その人達が高度成長を巡り、お金を得て、今では年金生活を送れる。お金の入出力を均してみれば、今の人と比べても少ないかも知れない。生活水準は低かったかも知れない。思っているより差はないよ。というかも知れない。それはそうかも知れない。

 

なぜそれで幸不幸の指標とできるのか。お金を得る機会を分析したものに幸不幸というフレーズをつけて衆目を集めたいだけではないか。それは科学ではなくビジネスである。今の老人も若い時は貧乏で苦労した、そう言うのが幸不幸と何が関係するか。つまり政府が年金改革で支出を減らしたいを誘導する以外にどんな目途があるのか。

 

幸せとは過去に対する評価である。だから長生きする方が幸せに決まっている、生きているだけで丸儲けとはそういう意味だろう。未来が多くある方が幸せも不幸もまだ小さいに決まっているのだ。

 

幸不幸は微分積分の値ではないか、それを平均値にして何か意味があるのか、50年前の人の不幸と今の人の不幸を比べる意味があるか。50年前の不幸よりも今の不幸の方が酷いと言えるのか。どうも時間軸を含めるとタイムパラドックスでも起きそうな気がする。

 

およそ満足の積分を最大化する事が幸せのひとつの指標と考える。通常は長く生きる程それは大きくなるはずである。しかし、残りの時間が短くなってくれば、必ずしもX軸である余命を長くする事が積分を最大とするとは限らない。

 

Y軸の満足が大きくなるならX軸を短くする方向も視野に入ってくる。若い人と老いた人では積分の取り方も変わってくる。医者は長く生きるを命題にするため、満足の積分という考え方はまだ一般ではない。

 

いずれにしろ、現在が不幸とは言えないという白書が注目されるのは、それだけ社会に不満が鬱積し始めている証拠であろう。それについて何らかのガス抜きや制度改革が要望されている。

 

もしこの白書の主張通り、あなた方が感じている程に若い世代にとって不公平の社会ではないと行政が本気で思っているのなら、それは打ち壊すべき古い体制と見做されても仕方がない。

 

正しいか正しくないかの問題ではない、人の心理の問題である。それは今という微分の問題になっている。その係数を上手に掴むことが出来れば、社会改革を順調に進める事も現在の行政を吹き飛ばし独裁する事だって不可能じゃない。