入閣の河野太郎氏「脱原発」どうする ブログの公開中断

政治家の資質として一番重要な事は何かと考えると、自分の背中を任せられるかどうかという人間性に尽きると思う。

 

戦場で自分の背中を任せるとする。

 

後ろから撃ってくるなんて論外だが、結構この手の人間が生き延びるし、政治家としても戦後にある程度の成功を収めたりする。ただ、歴史を見る限り、そういう人間は卑怯者の烙印を押されるのが末期なので、やるならこっそり、ばれないようにである。

 

あと気が付いたら逃げていたという場合がある。跡形もなく綺麗に逃げて消える場合と、逃げたんだけど後から援軍を連れて戻ってくる場合がある。もちろん、黙って行く事はないんだけど、連絡が取れない不可抗力もあったりする。ま、撃ってこないだけましだし、戻ってくるんならこれは頼もしい。

 

当てにしてたのにいつの間にか消えていた場合は、誤解だ、どうのこうのとトラブルになろう。お互いに無事に終戦を迎えたならの話。逃げた方は相手が生きて戻ってこなければ大成功である。

 

気が付いたら死んでいたという事もあろう。これはもう戦友と呼ぶしかない。勿論こちらが先に倒れる事だってある訳で、なんともかんとも。

 

いずれにしろ、河野太郎は、最後は敵方に簡単になびく男と見ている。必ず裏切り、後から人前で泣いて詫び己の良心をアピールするような映像が浮かぶ。

 

だけれども政治家たるもの、ずうっと外堀では詰まらない。やる以上は、権力の中枢に近づくべきだし、そのためなら、信念も理想も捨て去り裏切り上等でなければ意味がない。

 

だから政治家はどこで選べばいいのかという話になる。思想も政策も理念も一身上の都合である。目の前の問題を解決する事、そこが勝負となろう。

 

となると、やはり後ろを任せても逃げない事だけが政治家の資質ではないか。だから裏切る時には必ず挨拶する人でなければならない。これは礼儀の問題である。良心などさっさと捨てて置け。

 

ならば原発ゼロなんてどうでもいい話。捨てようが、保留しようが、隠そうが。当然ながら、そんな男を経産省のトップに据えるわけもなく、ほら、案の定、行革担当相である。だれも信じてはいないのである。

 

本当を言えば、行革はやりがいのある仕事である。原発ゼロなんかよりもずっと国家の将来に係わる。だから、安倍晋三としては、行革を骨抜きにしておくと言うか、失敗する為というか、停滞させておくという意志表示だろう。河野太郎の力量では、先に進まないと目論んでいるはずだ。

 

河野太郎は、民衆受けはいいかも知れないが、これと言った手腕、特に官僚との間に必要な調整や管理に優秀な実績があるわけではない。どちらかと言えば理念を吐き、マスコミの取りあげられる広報官のような所がある。やったとしても脅迫的に動かす事しかできまい。人が付いてくる器には見えない。

 

当然だが、未経験である事が実績を上げられない理由にはならないし、小泉純一郎のように、初めて尽くしであれだけのコトを成した近例もある。

 

さあさあ、なかなかに注視に値する人事ではないか。期待はせぬが、さてさて果報は寝て待てと言うではないか。