最近、プロの定義とは、負けっぷりが絵になること、だと思い始めた。
都知事を続けさせてくれれば、金など要らぬ、といった割に、できないなら、金はもらう、という行動の負けっぷりは悪いと思う。
ドラマならどっちかと言えば、敵役のそれだし、映画なら、主役でも、敵の主役でもない。ちょっとした端役という感じの小者感だ。
堂々としていれば、例え負けても次の眼があったろうし、負けて評価がうなぎ上り(うなぎは絶滅しそうですが)という目もあった。
それがたかが金の話で、しょせんは数千万の金で、地に落ちたもんだという気がする。舛添というブランドならば、もう少し高い負け方ができたはずである。辞めてから新書書くなり、講演するなり、あったろうに。
損して得取れ 、という格言がこれほど出来なかった公人も珍しい。金のガチョウは舛添であったのに、当の本人が目の前の小金をつかんで溺れるとは。
でも、面白いのは、ほとぼりが冷めた頃にこの人をまた使いたいっていう田原総一朗みたいな人がいて、まだ、こいつは金になるんだ、という勢力である。
元来 悪い人ではないというイメージがある。単に金に意地汚い、無頓着な性格の男である。つまり、見世物としての価値は高くなった。恐らく、彼の状況分析なり、それに対する政策なり、そういうものを聞きたいという人はまだいるだろう。
もちろん、彼の本論はそこにあるのだが、誰もそういうものに興味がないわけである。それが悲劇であるが、それは舛添の悲劇ではない。東京の悲劇である。
この国の人たちには、既に市政であるとか、国政などというものは、眼中にないように見える。まるで、それが自然と同じものと見做しているようにさえ見える。消費税というものが、まるで台風や地震かのような自然災害のように見えているかのようだ。
そういう人たちにとって、何がどうなるかより、誰が力を持つか、が重要なのだ。その流れの中で、舛添が何をしようとしたのか。彼が都政で本当にしようとしたのは何であったか。それはもう関係ない。
いつか、その事を懐かしく思う人がいるだろう。彼の元でならちゃんと仕事ができると思った、恐らくごく僅かな数の都庁の職員たちである。
いずれにしろ、彼は自滅して退場した。嫌いでなかった都知事だけに惜しい。