「言いがかりともいえる内容」 鳥取県の“有害図書指定問題”で県が指定理由を説明、出版社は怒りのコメント

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この問題には言論の自由と公権力による焚書と資本主義におけるビジネスの問題が複雑に絡み合っている。当然だが、純粋培養の無菌室を理想とするなら焚書は当然である。だが、実際はそのような世界を望むのは相当なマッドサイエンティストなので、実体は、どのあたりを落とし所とするかと判断基準が揺れるのは当然と思われる。

 

権力機構が、裏社会、犯罪組織、犯罪結社(ショッカーなど)などを取り締まりのは治安の要諦であり当然である。また革命軍、反乱軍と呼称する辺境勢力などは常に国家が監視すべき対象である。その最たるものは仮想敵国であろう。

 

公序良俗がある特定の宗教や道徳観から強く要求されるのは社会的な運動として常にある。この程度であれば、その決定力は治安の問題ではなく選挙における得票数が決め手だ。これは民主主義である限りは仕方のない事だ。

 

例えば幼児ポルノは人身売買の資金源となるから厳しく取り締まる。その指向の生物学的意味は話がヤヤコシクなるので取り上げない。極めて社会的な道徳、犯罪撲滅のために全員一致で認められるものである。この流れに異を唱えるのは相当な科学的根拠があったとしても難しい。その人からみたら自分が狂ってるのか周囲が狂っているかは分からないであろう。基本、社会というものは狂っているからである。

 

狂人の中で狂人になれば自分はまともだと思うだろう。自分は違うと思えば、周囲が狂人に見えてくる。当然だが、そのような人は周囲からは狂人に見えている。太古から知識の共有が社会を形づくる。コンセンサス、常識というものが形成される。

 

社会の大きな変革期(常に社会は変動しているとは言え)、例えば思想や技術、社会体制などの変化が既存の何かと衝突するのは日常の話だ。黒人奴隷もその連続の中で日常を変えていった。血を流し命を賭けて。

 

『アリエナイ医学事典』は覚醒剤の作り方でものってるかなと思って目次を見るとそういうのじゃなかった。辞典というより面白そうな雑学本だった。『アリエナイ工作事典』は流石に全部の技術を応用したら原爆くらいは作れそうだけど、工学ってそういうものだよね、という訳で、なんとも言いようがない。

 

『裏グッズカタログ2022』は全部市販品だから、公安とか警察は最新機器のチェックに有益な本じゃないだろうか。こんな本があろうがなかろうが犯罪者なら辿り着く情報ばかりである。

 

要はこれらの本はそれなりにディープな情報に興味のある人向けに書かれており、そういう購買層は常に一定数はいるのである。その程度でいまさら危険と言われましても、という感じだろう。もっと脱法ハーブや覚醒剤の合成方法が乗っていた李銃の3Dプリンタ設計図があるのかと思ったらそうではなさそうである。アメリカには原子爆弾の作り方のサイトまであると聞く。たしかドラマではそれも言論の自由だった筈である。

 

そもそもそれなりの大学で学べば全て公的に正当に得られる知識である。一般大衆の中に犯罪予備軍がいるのは理解できるとして大学で学ぶ識者の中に狂人がいない訳でもない。オウムを支えたのは科学と工学と資金である。革命したければもっと本気でやれと言いたい。

 

出版社としては言論の自由で戦うしかあるまい。何が危険な知識かで争っても平行線が交わる事はどの幾何学でもない。それは原理でも定理でもなく社会の規範だからだ。絶対的な価値観ではなく、相対的な価値観の争いなのである。時間とともに変化するものである。

 

その変化を促したいという主張は否定されるものではないが、当然ながら安倍晋三元首相の暗殺が手作りの銃であった事から、社会の中にはそのような知識の封印、禁忌(鋼の錬金術師で言う所の賢者の石みたいなものか)を望む声が上がるのは一丁目一番地の話であって、知らなければ偶然はあるとしても相当に起きる確率は低いという常識にそこは従っている。

 

しかしこの考え方は相当にコストの割りに効果が低い。日本がインターネット鎖国し情報統制を強く行うロシアのような国なら可能と思える(鳥取県はそういう地域を目指しているのだろうとは思える、陸の孤島ぽいし)が、そのトレードオフとして科学技術の衰退、工学の劣化、人心の荒廃は避けえない。逆に言えば相当な暴力団組織でもなければ正式な銃を入手するのはこの国ではまだ難しいという話でもある(恐らく)。

 

だから手作りに走ったのだろう。だがその過程で恐らくその工程が楽しくもあったのだろうと思う。彼がもし隣の道を歩けたならよいエンジニアになれたはずである。手作りで威力のある銃を自力で作るエンジニアリング力、それを計画し実行し成功させたプロジェクトマネージャとしての素質、そして決して諦めない心、惜しい。

 

人から好奇心を奪う事は難しい。子供たちは本当に見たければ英語くらい簡単に乗り越える。学校で教えるあらゆる学業が、受験にしか結びつかないような人にはどうでもいい話であろう。

 

鳥取県有害図書指定は相当に知事の肝入り事業か(そういう人にも見えなかったが)、その背景に縁故者の運動があろう事は安倍内閣を経験してきた日本人になら想像は容易い。

 

だから鳥取県が折れるはずはない。それを可能としたければプーチンを権力の玉座から引きずりおろせるのがロシア国民しかいないのと同様に鳥取県民しかいないのである。香川のゲーム条例でもそうであるが、衰退する地方は権力奪取するのに好都合な狙い目なのである。中国がそれに気づかなければいいけど。

 

しかしそもそもの発端であるアマゾンに誰も何も言わないのは、恐らくアマゾンが私企業であり、何を売る売らないを決める全権を持っていると考えているからだろう。そこが鳥取の条例を参考にすると言ったから引き下がるしかない。アメリカの弁護士なら戦いを挑む人もいそうだが、さて日本人の弁護士でアマゾンの抱える弁護団と対等に渡り合える人がいるものやらどうか。

 

よって言論の自由の問題や、良識や社会治安の顔をしているように見えて、これは資本主義の問題なのである。もしアマゾンが単に売らないよというならこれは三才ブックスとアマゾンの間の交渉事である。どの基準を満たせばよいのか教えてもらい持ちかえって検討するはずなのである。実際に事の発端はそうであった。

 

つまり純粋な資本主義のビジネス上の契約の問題なのである。そりゃ互いの利益が係わるビジネスの場である。脱法でない限りは何でもやる。それが交渉というものである。

 

今回の問題の特徴は、そこに公権力の判断が組み込まれた事である。アマゾンはそういう意味では売る売らないを自分たちで判断する気がない。可能なら裏サイトで売られているものでも合法なら売りたいはずである。ただ脱法になるからやらないだけである。そこにある判断基準に何ら取り上げるものはない。ただ有害図書指定を採用した。こんなに簡単で確かな指標もないから。

 

アマゾンは私企業として売る売らないの判断基準を自由に設定できる。

 

政府自治体は、独自の基準で有害図書指定をする事ができる。それだけなら言論の自由には触れない。ただリストに載せて公表しただけである。これは犯罪者の氏名を公表するのとそう変わらない。

 

ただし権力者にも発言の自由はある(公権力に言論の自由があるかは微妙)が、必ず説明の義務が伴う。そこでコンセンサスが取れない場合は、弾劾裁判やピーチメントで争う制度を採用している。

 

そして出版社には自由に本を売り出す権利を持つ。ただし、その権利の中に黒字になる権利に含まれていない。ただし出版社からしたら鳥取県に営業妨害されたという気持ちは強いはずである。さてこれは業務妨害で争える事例かどうか。

 

資本主義はそういう様々な思惑を載せて最終的に最上の価値基準をどこに置くのであろうかという話である。常識や思想、理念であろうか。恐らく違う。利益であろうか。恐らく違う。資本主義が求めているのはただ決断である、何を前に挫折しようが屈しようが抗おうが、個人の決断だけは尊重する。それが資本主義の原理であろう。そして連なってきた決断が今や巨大な貧富の格差を生み出した。

 

この不公平に耐えられる人は居ないはずだから、資本主義はどこかで破綻する。つまりアメリカは経済を理由に没落するのではないか、という懸念がある。実際にトランプ支持者が国民の5割に達する背景にあるのは資本主義である。ソビエト連邦という敵を失ってからアメリカの資本主義は暴走を開始した免疫システムのようだ。中間層が破壊され資本主義が日常生活の転換を強いた。移民、人種、肌の色、性差など原因たりえない。不満の捌け口に過ぎない。

 

破綻を目前に迫られている地方自治体である鳥取県、ビジネス環境の悪化になんとか活路を見いだそうとしている出版社。ほらアマゾンだけが勝利者だ。そして何のコメントもなくてよい。なぜならアマゾンだけがプラットフォームの提供者であるから。

 

こういうのをステージが違うって言うんだっけ、渡部?