高市早苗氏、防衛費のための増税決着に「納得」 首相批判の矛納める

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年齢を調べたら1961生まれ、61歳だそうである。それで自分を仲間外れにしたとクレームを言い、説明を受けたからと矛を収める。政治家とは、信念なくば傀儡である。だから簡単に手のひらを返す。その辺りの嗅覚は度し難いと表現するしかない生き物である。しかもその信念に価値があるかと問われれば相当に疑問である。

 

その信念が市民のためだったり人類の未来であったり地球の将来を思っているなんてのは何の言い訳にもならない。そのために自分が権力を維持しなければならないと簡単に闇堕ちする。

 

よって人間の自律性というものはその人がどのような人間であるかを如実に表現しない限り評価できないし、そのひとつの指標は、人間の尊厳とか忠誠とか矜持というものになる。自らを大切にしないで他人を大切になどできはしないという考えもあるが、自分を大切にする人間は平気で他人を酷く扱うのである。

 

人間の価値観には価値がある。それが唯一の人を判断する基準である。だから良い人であるという認識が人間の行動の原則になる。人間性の追求という部分は政治家の世界でも実現されるのである。

 

というのは建前である。所詮は政治家は写真写りが9割である。そういう意味では高市早苗にも家族はあろうが、政治家としての彼女の写真には妖怪以外の感想は浮かばない。

 

豊田真由子が政治家の時と引退した時で顔つきががらりと変わった印象は強烈であった。ここまで顔は変わるものか。昭和の中頃には、男は自分の顔に責任を持たないといけないと言われていた。これがリンカーンの演説中の言葉が出典だそうである。

 

その意図は男女とも40を過ぎる頃には人生経験が顔に刻まれているものだ位の意味だと思うが、医学も健康もまだ厳しい時代の言葉である。写真がこれだけ手頃な時代では少し意味が変わるのもやむなしである。

 

人は簡単に人を裏切るし最後までだまし通すのも人の能力である。それが顔に映し出される訳ではない。それで分かれば苦労なし。増してや思想だの能力が顔に映るわけでもない。顔は決して能力の通信簿にはならないのである。

 

だが、人は人の顔をみて瞬時に判断をくだす生き物である。これは能力的にはかなり初期に獲得したものであって、人の目は肌の血色を判断するために良くカスタマイズされているというのは、ヒトの目、驚異の進化(マーク・チャンギジー)に書かれている。

 

人は肌の色で区別しようとするがそれは視覚の本来ではない。血色を見分ける事が重要である。つまり怒っている、おだやかであるなどの感情を読み取るために特定の波長に反応するようにカスタマイズされている能力なのである。そういう視線に晒される政治家はある意味では仮面を被らなければやっていけない部分がある。

 

だから顔からだんだん人間らしさが失われ、岸田文雄のように殆ど死んだ魚の目をするような生き方になる。そう考えると安倍晋三は感情の出し方が巧みであったか。あれが良く出来た仮面なのか本心なのかは知らない。

 

野生動物は自分の弱さを見せないと言う。しかし、足を怪我すればびっこをひくものだし隠しきれる訳でもない。実際に追いかけてみれば分かる事であるから隠す意味は弱い。そんな暇があれば隠れ場所を見つける方がいい。よって、戦う構えを見せる事がほぼ唯一の対抗策となる。そういう駆け引きは虫の世界でも発展しているのだから、意志の有る所ではそうとう根源的な能力と考えられる。

 

このどう自分を見せるかという点では、杉田水脈もそうとうなもので服装を見れば相当な少女趣味的と思えるが、実体の写真は醜い。醜いと言えば醜女という言葉であるが、昔語りでは大抵が人食い鬼である。そういう印象を強く感じる人である。

 

そう受けとるのも、全て新聞社が使っている写真が意地が悪いからだ。こんな不細工な写真をわざわざ使わなくてとも、とは思うが、ここまでくれば病み付きである。もっと不細工な写真を載せろが市民の要求である。すなわち我がローマではパンと写真である。

 

小渕優子などどんな写真を見てもドリルを使ったAVしか連想できない。彼女は大変である。どれだけ知的でも馬鹿にしか見えないのだから。それと比べれば蓮舫などまだなんとか保っている方であろう。テレビで活躍したノウハウが残っている感じか。

 

不細工かどうかは政治とも政策とも関係はない。関係はないが、関係ないのになぜ斯くも女性議員は生き残るためには、目立たないといけないのか。女性の役割を果たすために矢面に立ち。その理由は男ほどひどく非難されないからだ。そういう女性の武器を最大限に利用しなければ生き残れない。馬鹿な男に調子を合わせなければ出世させ不能だ。

 

これをどう考えるか。伏魔殿?いや違う、既に強固な既得権益が確立しているのである。日本は戦後70年かけてそういうものを作り上げたという話だ。そういう国家の固定化を刷新するために民主主義に導入された制度が政権交代であるが、日本人はそれに価値を見出さない。恐らく民意は変化を嫌う。緩やかな衰退を選ぶ。

 

そういう立場を自覚した上でまず広報で自分の立場を確立する。それが女性政治家の立身であろう。流石に妲己のようにのし上がるはあるまいが、いつか国が乱れて出現しないとは言えない。

 

女性政治家は駄目などありえない。現在も多くの女性首相が活躍しているし、世界史を眺めれば優れた女王、女帝も枚挙に暇がない。女性は多くの地域時代で男より格下として扱われてきた歴史がある。そういう感覚も薄く隅々まで浸透している社会もある。そういう中で女性を立てる男性も大勢いた事は間違いない。

 

歴史的に考えれば女性が政治家であるから駄目という話はない。日本の歴史なら最初に出現するのが卑弥呼なのだから、そういう考え方は有り得ない。しかし歌舞伎の始祖が出雲阿国でありながら幕府による女人禁制を今も伝統と称する制度は各地に沢山ある。そこに合理的な意味があるとは思えない。説明可能な理由は存在しない。

 

卑弥呼を今の世で映像に写したらどう見えたのだろう。もしその写真が残っていたらやはり妖怪に見えたのだろうか。余りに伝え聞くものが残っていたためどのような治世であったかは不明だ。しかし、中国の古文書は争いのない時代と記載している。それがどのように実現していたかは分からない。ましてその後にどのような紆余曲折を経て神武天皇へ至ったのかも不明だ。

 

しかし、神の世界とは言え、どこかにその役を担った人間たちが居た事は確かであるし、その人達が、ヨーロッパの端、アフリカの奥地、アジアの大陸、遠くアメリカで、生きた時代がある。口伝さえ失われているが確かにその時代があった。

 

それと比べればなんと小さな妖怪たちであろう。