【M-1】優勝はウエストランド

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前日の細かすぎて伝わらないモノマネでは、キンタローの破壊力に十分な満足を得て、ラパルフェ都留のお笑い向上委員会では知らなかった面白さを知り充実した日を送った。

 

そしてM1である。もしウエストランドが決勝に進出していなかったらきっと見なかったと思う。2020のM-1以降、ビデオに残っているお笑いはゴッドタンを除けばウエストランドくらいしかない。

 

だから、ウエストランドが、まさか?がその瞬間の第一印象であった。来年の出演が増えるなら、二位でもいいと思っていた。決勝に進むだけでも上出来だと思っていた。山田邦子が採点の最初で強烈な振い役となったため、最初の91点でもう満足もしていた。

 

しかし、優勝したからと言って、来年のウエストランドが売れるかどうかは別の話だろう。M1優勝者がNo2より低迷した例は幾らでもある。コンビの片方だけが生き残っている人も大勢である。

 

最初にあるなしクイズをやった時には10番目という事もあって、静かな立ち上がりに「にちようチャップリン」でもう見たよ、このネタという感情であった。もしかして勝負を捨てたのかもと不安になった。が、同じではなかった。既に聞いた事のある内容にも係わらず、勢いの瞬間風速は自分の中では最大を記録した。

 

漫才として見れば、さや香の方が完成度は高かったろう。総合力では圧倒的に上だったと思う。そういう意味では今後のバラエティで使いやすいのは圧倒的にさや香の方だとさえ思った。所が、さや香の漫才はこれは台本どまりなのかな、それとも実生活までそうなのかなという仕事とプライバシーの境界線みたいなのが見えてこない部分がある。

 

井口にはあれは完全に絶対に全部本音という匂いがする。この場合、真実はどうでもいいのである。どう受け取るかだけの問題だから。

 

もちろん芸がプライバシーの切り売りである必要はない。優れた芸はそういうものではない。もっと言えば、全てを芸に捧げているなら仕事とプライバシーの境界は極めてグレーになるのである。朝起きてから数学を考えるようでは不十分である。寝ている時から考えているくらいでないと駄目だという話がある。寝ている時にバグ修正の夢を見るようになってプログラマならは一人前という話もある。うそつけ何人の子供がいるんだよという話である。

 

どのような人間にもプライバシーは必要だ。それはあらゆる警戒を解除するという意味でもそうだ。そうでなくては脳は休めない。まして自分の全てを人前でさらけ出すのは物理的に不可能である。時間単位で刻々変わる自分を一瞬の中に全てを凝縮して表現するなど次元をひとつ上げなければ不可能である。

 

そういう意味でもさや香は圧倒的な技術に裏付けられたプロの仕事だったと思う。その完成度の高さが評価されたように思える。一方のウエストランドはそれらを全て熱量で圧倒したように見えた。ライブという舞台だから成立したとも言える。

 

M1のような形式ではトップバッターは基準値となるため、相当なスタートダッシュがない限り、後続を抜き去るのは難しい。それに続く演者は一つ前の舞台の残り香を断ち切りながら自分たちの舞台にしてゆく。特に爆笑を掻っさらったり異次元空間に転生したような時にそれを元に戻すだけでも相当な力量が必要になる。

 

そこがくじ運の影響する要因であるが、ウエストランドはそれらを見事にやってのけたと感じた。一般的に舞台の空気をリセットする切り返しはどの芸人も持っている技能である。ある意味では全ての芸人はそういう消火器を持っているのである。

 

所がウエストランドはそれを放火でやってのけた。前の空気を消火するのではなく更に激しい火で燃やし尽くす事で薙ぎ払ったように思う。それが特に顕著だったのが決勝であって、前と同じネタで勝負するのかと思えばM1批判、大阪批判を繰り広げた。ここは圧巻だった。全て聞いた事のある内容でもタイミングと勢いと舞台が揃っていた。

 

タブー破りというのはいつの時代も人の心をつかむ。オードリーはM1勝者ではないが、春日がゆっくりと歩いてきただけで、何かを掴み取った。普通は小走りする。時間が惜しい、その数秒の中に入れた笑いひとつで雌雄が決すかも知れないのある。

 

所が軽く5秒以上を無駄に使い切った。ひとつの笑いも起きない。ピンクのベストを着た男が単にゆっくりと歩く姿を見ていただけであった。だが、この5秒が決定的だった。NON STYLEの事は忘れてもオードリーの事は忘れられない。トーナメントには負けたが勝負には勝つ。もちろん、その後の状況を見ればNON STYLEもナイツも勝負には勝っているのである。

 

恐らくトーナメントとは関係なく印象に残る人というのが出現する。そしてその最大のピークがどこであるかはこれまた別の問題である。

 

ウエストランドはぶちラジを聞いていればいい奴だがいつも面白い訳でもない。舞台もそうであろう。彼らはA10攻撃機であって、F35,F15,F4のようなマルチロール機ではない。今回は舞台だったから評価された。テレビのスタジオで同様の笑いが起きるかは不安だ。

 

井口の悪口、人を傷つけるというワードが審査員のせいで独り歩きしているが、ウエストランドの笑いが悪口に聞こえた事はない。毒舌とも違う。あれを文章にしても絶対に面白くないはずである。あれは一種のラップと同じで、まくしたて方が面白いのだと思う。次々と出てくるワードが面白いのだと思う。そしておおいいのを見つけたとその瞬間から畳みかけるライブ感が面白いのだと思う。その横で炎上し過ぎないように河本が立っていて、ちょろちょろと水をかけている。もし、これが井口が一人だったら単に頭のおかしな人だ。

 

漫才というフォーマットだから成り立つ。爆笑問題の漫才が社会批評で面白いのは、太田光が漫才以外で語る社会批評とは全く別ものである。ウーマンラッシュアワーが漫才で中川パラダイスが横にいるからあの芸が成立する。もし居なければ単なる芸人の社会運動になる。ナイツの突出した風刺も笑いが成立するのは横に土屋が立っている事による。

 

漫才という形式には際立つ言動に対して常に中和が存在する。リセットして次に繋げ、その繰り返しをする部分がある。そうやってツッコミと呼ばれる側の多くが観客の感情の基準を支配している。

 

相方が引いていないならこれは笑ってもいい状況である、そういうテレビのワイプと同じ効果を発揮する。ワイプに抜かれるタレントや俳優たちが表情ひとつで観客たちの感情を誘導する。つまり無意識にワイプから伝わってくる感情を導線にして観客に伝播するようにテレビは作られている。

 

ここは笑う所ですよ、ここは泣いてもいい場面ですよ、さあ怒りが込み上げてくるでしょう、そういうガイド役がいるから、安心して感情を託す構図がある。

 

この構造は映画であれ漫才であれコントであれ同様だ。何を見せられているんだ、という感想は、そのガイド役を取り除いた場合の特殊解で、基本構造を逆手にとってこれでも伝わるはずだという演者たちの信念に基づく。

 

華丸大吉の漫才は突っ込みではなく華丸をなだめるを理想とするという。博多華丸大吉の漫才の面白さには、それぞれの素の人柄と感じられる瞬間がある。この人柄が観客にとっては最も重要で、そこでそっぽを向かれたら笑いは起きない。

 

芸とプライバシーの垣根が消える瞬間がある。これは本心であるな、という部分が全体を覆う瞬間がある。この有無が舞台では重要になる。本心でなければ嘘である。嘘も本心なら本物である。政治家の言葉にそれは顕著に感じられる。

 

華丸の奔放さが大衆が持っている常識の強靭さそのものを体現している。そこに大吉が翻弄される図が面白い。まるで古典落語の構図が漫才に変化したかのようだ。

 

笑いの根底にあるものは信頼だろう。それを獲得する為に、全くの赤の他人の前で芸人は舞台に立つ。その過程を通して、印象に残る、何かを伝えたい。その先にしか笑いは起きない。ル・ボンの群宗論でさえこの構図は崩しえない。ただ群衆の場合は群衆を動かすためのガイド役が潜めやすい。そして人は一端、こうだと決めると、そこに安住しやすい脳の癖がある。一度笑っていいと決まると、簡単にいじめになり、暴力になり、死亡へ至る道が開かれる。

 

だから芸能は優れてそうならない安全装置を何十にも持っている。特に最近のお笑いは多くに人が優れて試行錯誤を繰り返し高度なテクニックを編み出している。社会の風刺であろうと、批判であろうと、それを笑いという形で瞬間の風速だけで終わらせる技がある。

 

優れた笑いは舞台が終わった瞬間に笑った記憶だけが残り内容は消えるくらいで調度いいのかも知れない。印象だけが残り、それが何だったのかも分からないくらいなのがいいのかも知れない。それをテレビの中で発揮しなければならない。来年のウエストランドには不安半分、楽しみ半分といった所だ。

 

ねたみ/そねみ/ひがみを満たされた者が持っても共感は得られまい。M1優勝はある意味、営業妨害だ。すると何を活力に芸を磨くのか、偏屈をつらぬくのか。爆笑問題といういいサンプルがある。だからこれからもっと面白くなればいい。

 

もちろん、これはお笑いの分析では断じてないのである。ウエストランドが選ばれた期待と不安、我にあり、ベルレーヌである。

 

M1に優勝したからといってポンコツが高級車に生まれ変わる訳ではない。河本の二代目森泉が漫才になればなと思う。