対話型AIで米MSと提携=「アフィーラ」新試作車―ソニー・ホンダ

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車の発展は馬車の延長から始まり BenzやT-Fordは馬を内燃機関に置き換えたものだったが、実現するには馬車とは異なる様々な機構、遊星歯車、デファレンシャルギアといったものが併せて実用される歴史でもあった。

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それでも、車の4輪、居住区、エンジンといった基本構成は今も変わらない。当初馬車風の車輪は、速度の上昇とともに改良され、ゴムタイヤの発明によってより馬車を追い抜いてゆく。

 

ボディも次第に馬車の形状からレシプロ航空機の影響を受けたかの様な形状に変遷してゆく。これが戦後になるとジェット機の影響を受けたデザインに置き換わる。車はいつも航空機となって空を飛ぶ夢を見ている。

 

車の代表の形はセダンとSUVと思うが、このふたつのタイプは居住区の違いが大きい。これらはどれもどう座るかの違いであるから、車とは座り方の歴史とも言える。

 

座るという行為は、長時間人を狭い場所に拘束するのに必要な方法であって、安全性から言っても、どの移動手段もこの座るという行為を中心に組み立てている。デザインはこの制約から逃れられないので、どう頑張ってもそう大きな違いは生まれない。

 

それでも内燃機関から電動車に変わった事で、例えば冷却などの機構が異なるなど、外観には大きな変化を与えている。またLEDライトの発展がライト形状に自由度を与えている。

 

同様の変化は、恐らく他にもあって、エンジンの配置位置、燃料の配置等々、電気自動車のイメージは内燃機関とは大きく変わらなければならないと感じている。だが、まだ決定打といえる形式は生まれていないように感じる。ガソリンから電気への過渡期という感じしか受けない。

 

外装のデザインがほぼ従来と変わり映えしない車で、内装に液晶パネルをずらりと並べているだけでは、果たして近未来的か、と言われても、携帯がここまで発展した世の中で、果たして車に備え付けの液晶パネルを重宝するだろうかと訝る。

 

家庭内でさえテレビを中心に居間に集まるにしても、それぞれがスマートフォンを触って楽しんでいる訳である。AIや自動運転が団らんを仲介するというバラ色の家族像は恐らく嘘っぱちだ。

 

自動運転によって人間が運転から解放されたなら、恐らく速度についての要求は失われる。電車に乗っていて速度を気にしないのと同じだ。新幹線でさえ280だろうが300だろうが気にならない。

 

早く移動したいと人間がアクセルを踏み込むよりも自動運転車が連動して走行する方が圧倒的に短い時間で移動を可能とする。バカげた渋滞が短縮されるから。

 

未来の車は本当に座っていないといけないのか、そこから始まる気がする。安全性の観点から見ても、寝転んでいるのが車のデフォルトになるのではないか、シートベルトよりも空間ごと保護する機構さえあれば、座る理由は失われる。

 

SA・PAへの立ち寄りも減るだろう。休息をする理由がない。だから立ち寄りたいという欲求が満たされなければ、維持さえ困難になるだろう。という事で道の駅がモデル化されたのはとても有益だったという事になる。

 

自動運転の実現とは、人間に変わって運転を制御する事である。それは外界の情報を入力して、意志決定し、ハンドルとアクセルとブレーキを制御する事である。制御はそれだけであるが、周囲では常に突発的な事象が起き、暗黙知による慣例化した運転などがあり、リアルタイムの処理でこれらに完全に追随できるか。

 

処理速度は向上しておりスポーツも人間がコンピュータに勝つのは難しいだろう。だから瞬時に判断するだけでも相当の安全性は確保できる気がする。しかし、車は物理量を持つので、ブレーキを踏んで止まるまでの時間が常に計算通りになるとは限らない。

 

その場合にどうするのか、どのように被害を分散するのか、正解のない決断が必要なシチュエーションは起きるだろう。それがコンピュータには難しい。リアルタイム処理では、その結果として最後どういう制御になるかはやってみるまで分からないと思う。

 

それでも今後の運転においては人間が最大のリスクであって、意味もなく急ブレーキを踏んだり割込みをする運転者が自動運転をより難しくする。だが、これらは前もって解決できない事象なので事後に刑事裁判で決着するしかない。

 

その時には自動運転のログが提出されどのようなアルゴリズムでどう制御がされたのか、その制御の中で人間の運転手がどれほどの状況を悪化させたか、自動運転の利点はあらゆる画像、センサー情報が蓄積されているので、人間は逃げ切れない。事後に追跡され、理詰めで追求される。どう危険であったのかを当人の弁を待つ必要さえないのである。

 

そういう形の自動運転の実用化に向けての技術発展と並行して、自動運転化された車は周囲と情報を連携しあうので、全体の動きを把握して、その予測に基づいて前もって意思決定を行う。渋滞の原因である坂道や案内板などに影響はされない。合流もスムーズに行われる。人間よりずっと高速に安全にできる。

 

連携しあっての運動と言えば、Boids的な動きを想像しればよいだろう。ある意味、大勢が連動するのは人間が最も得意とする所であった。白目が意思伝達の為に発達したとも言われている。自動運転はその部分でも人間を凌駕する可能性を持つ。

 

車は各々が独立し連動して移動する物性になる。夜空を彩るドローンショーと同じである。この情報連携が自動運転の到達点だろう。もちろん、そこには故障した車、事故で失われる情報も発生するので、複雑な情報伝達に対応してゆく必要がある。これにはそれなりのアルゴリズム構築が必要だろう。それでもインターネットの「できるだけ頑張る、無理なら諦める」のコンセプトで構築されてゆく事になると思われる。

 

様々な場所でそれぞれの人が独立して開発してきたものが自動運転をコアに次々と繋がる世界がある。AIが人のために忠誠心をもって動くとは思われない。しかし連動してゆく世界の中で、ひとつの方向が決まってゆくのも確かだ。

 

それはターミネータのようだ。