クリスマスケーキ騒動の高島屋、過去にも配送トラブルか 「母の日ケーキ」が悲惨な姿に……「理不尽です」

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百貨店という商用形態は、過去の時代に分類される。それでも今でも成立するのは、ブランドイメージへの圧倒的な信頼である。特に昭和を生きた者たちにはその信頼感は抜群で圧倒的で今なお絶対的である。

 

この信用は、出店するお店への審査や対応によって築き上げたものだ。百貨店に出店しているお店はそれだけで信頼である。これが看板方式の圧倒的なまでの強みと長所である。日本において百貨店で粗雑に扱われるなら、恐らくどこでもそう扱われるのだ。

 

接客業に関しては百貨店は日本の最高峰のひとつであろう。陽の百貨店、陰のキャバクラである。

 

品揃えや店舗が高級志向であるため、経済的には厳しい筈である。そもそもが大衆向けの中でも高級層狙いというブランドに依存するから、中間層の存在がビジネスの中核であって、そこにカスタマイズして組み立てられたビジネスモデルである。

 

よって中間層の縮退、弱小化により購買力が低下すると百貨店が苦戦するのは自明であって、経済改革をした日本で百貨店ビジネスが厳しくなるのは仕方ない。小泉を支持した自分たちを呪うがいい。

 

それでも、デパ地下は今でも楽しい場所だし、お店がたくさんある事のうれしさはネットとかUBarでは味わえない百貨店の醍醐味である。

 

まじめにやっていれば百貨店で買い物ができたり、食事が楽しめる。これがひとつの昭和の思い出であろうか。

 

既に日本ではまじめにやっていれば、は通用しなくなった。賢く立ち回らなければ、機を見るに敏でなければ、間抜けが損をして当たり前という手抜きが儲かるという経済環境を作り上げてしまったから仕方がない。すべて小泉改革の帰結である。

 

勝ち組という言葉が受け入れられて完全な格差が始まった。子ども食堂など政治の失敗でしかないのに、それをやっていたり支援する事が良い事だと考えるくらいには日本人の知能は低下した。子ども食堂は対処療法としては必要であろう。また変わりつつあるコミュニティを維持したり新しい受け皿としての可能性は多いにある。

 

だが、そのようなものは決して貧困に対する回答ではない。そうでない形で生まれなければならなかった。

 

百貨店は昭和における価値観、真面目の頂点にあった。それが平成、令和となり、信頼を失いつつある。恐らく、日本は底が抜けた。ざぁざぁと水が抜け始めているが、何せそれなりに巨大な水瓶なのでまだ自覚がない。

 

この対応ははっきりいって信頼の失墜である。恐らく、すべての人がまじめにやってこうなった。恐らく百貨店はネット販売に対応できない。恐らく、彼らのビジネスモデルにはインターネットを支える原則ベストエフォートへの理解がない。

 

「できるだけ頑張る、完璧でなくてもいいし、できないならやらなくていい。無理はするな、駄目でも誰かがカバーしてくれる、そういう化け物みたいなギークがどこかにいるから。」

 

これが意味するのは、やっても駄目な場合があるである。だから、重要な事、大事な事は、自分で工夫してみようよとなる。誰かに託して信用してはいけないという意味になる。誰かが助けてくれるはずだけど、必ず助けてくれるわけではないという意味になる。

 

システム設計が全く異なっているのである。状況から見る限り、冷凍庫に入れる前に溶けた事は明らかである。詳しい人によれば、冷凍庫に入れる時間が短すぎた可能性。そのため表面しか固まっていないので、移送中に溶けてしまった可能性。え、アイスクリームの輸送って確率された技術じゃないの?

 

それがいつ、どこでを見つけるためにはトレーサビリティが必要である。そんなデータはどこでも取っていないだろう。金銭をけちればITでは全てが抜け落ちる。手間暇の問題ではないのである。

 

いつが分からないなら何処も分からない。ヒアリングしても各自は真面目に仕事をしていたはずである。頂いた費用と時間ではこれが精いっぱいです。そんな答えなのだろう。悪意のある人間がどこかに居た方が余程ましだろう。そいつが間抜けならSNSで勝手に下呂るだろうから。

 

しかし、全ての責任は自分たちにあると言ったその口が、同様の事件を過去にも起こしていたのである。責任はあるけど再発はするよ、その答えは無能しかないではないか。この信頼性の消滅は耐えがたい。口先だけと百貨店が思われたなら、接客業としては落第であろう。

 

これが店頭のビジネスならば全ての商品は販売員たちのチェックが入る。その数秒の何気ない確認が百貨店の信頼をここまで築き上げてきたのだ。ネット販売では、誰も途中に介入していないはずである。ビジネスフローの構築が全く違うのだ。

 

これは新しい経済体制に移行する時に払うコストである、恐らく中國はネット対応に関しては日本の数倍先を進んでいる。彼らのメンタリティが相性がいいからではないだろう。彼らはそれより前の状況がない。白紙の所から初めたからアイデアが次々と湧き出る。

 

日本の成功は1970代であって、その頃はほぼ世界の最先端にあった。数々の発明に日本の貢献は多大にある。ハードウェアもソフトウェアも我々の真面目さと一致していたと思われる。だけれどもインターネットが変えた世界では何かが違う。今までと同じやり方では通用しない。なぜなら方式が違うからだ。方式の違いを無視するのはVHSにβを入れようとするようなものだろう。

 

いまそれに対応しようと揺れている。だが、上手く対応しているのはロシアと同様なフェイクだの、政治的な右傾化ばかりである。そんな産業しか生みだせていない。生産性、なにそれ、選挙に勝てるの?

 

過去の方法の上に新しいものを接ぎ木しようとする目論見が駄目なのか、それともその速度でしか対応してゆけないのか。

 

ケーキが解けた写真は今の日本をとても象徴している。