立民・国民、略称は「民主党」=衆院選比例、3回目の競合

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新聞を読んでも政党広告、youtubeを見ても政党広告、兎角世の中は騒がしい。国家の帰趨が決まるならそれもやむを得ない。さりとて知る事以外にする事もなし、所詮人生は記憶の上書きだ。

 

自民党「日本を守る。成長を力に。」

防衛おたくの首相だから日本を守るは譲れなかった。ここには右傾化の流れから票田を掠め取る思惑もある。といっても自民党系の防衛は日米同盟が基軸であるから、基本的にはアメリカのご機嫌伺いになる。それを弱腰と腑抜けと感じる票もある。

 

もし西洋列強ならば、相当に弱い立場でも正論で相手を説得する所がある。少々の交渉決裂など、仲良くデザート食べたね、くらいの思い出でしか残らない。所が、日本は鎖国由来もあって、またアジア人蔑視もあって、交渉下手な所がある。その辺りは明治期の日本人よりも相当にヘタレになっている。この辺りは別段に普通の話であって、特に問題はない。

 

自民党のキャッチフレーズで気になったのが「成長を力に」の方だ。この力に、この成長は、誰にとっての、どのような力か、これが一切省略されている。馬鹿でない限りは、この成長もこの力も全ての人に向けてである筈がない。分配が政府の基本機能である。全員に配るがあり得る訳がない。

 

とはいえ、保存則がこの世界を覆う限りはが前提条件である。経済には価値と信用が増大縮小する現象がある。その点では保存則は保たれていない訳で、この差分を上手く使えば永久機関も夢ではない。所がこの膨張も体積だけに着目した場合であって、濃度の考えを加えると保存則が保たれているかも知れない。少なくとも地球上での経済には必ず飽和、上限値はあるはずとは言える。

 

自民党であるから、この成長がフォーカスしているのは国力の中心である大企業、経済連の成長である。それを富裕層の力に、と読むべきであろう。貧困層の成長にはトリクルダウンの思想を取り下げていない筈である。飽和しない空間はない。その時が来るのを待つべきというのが基本的方針であろう。

 

これは経済全体の底上げの力ではあるまい。限られたパイをどう分配するか。貧困層に投資して何が期待できるか、地方に投資して何が得られるか。直接的に見る限り大企業への投資の方が具体性がある。何より献金という形で実現しやすい。そして日本にはノーベル経済学賞をとった学者がひとりもいない。経済が好き勝手に利用されている。

 

とはいえ、この標語は安全保障と経済問題についてのアイコンであるから問題の本質は綺麗に突いている。

 

公明党「希望の未来は実現できる」

公明党の政治家が創価学会である必要はない筈である。とは言え、この組織票に絡んでない筈もない。その点では、統一教会自民党創価学会公明党という図式で与党は更生されている。もちろん政教分離の原則に基づくから、実はバックボーンは関係ない。まさか教主を総理大臣にを掲げているなら別だがそんな主張は聞いた事がない。裏から支配すればいいのだからそんな方法は必要ない。

 

教主を首相に、例えそれが日本国の制度上可能であったとしても今の所そのような気配はない。とは言っても、「希望の未来」にどのような宗教的色味がついているかを考えてしまう。宗教的理由がない限りは選択肢には入りにくい。所が、恐らくは自民党の政策に対してへの中道的な良心的な貢献は実はもっと評価されていい政党である。

 

公明党が宗教的な私益のために働いたという評判はきかない。日本のフリー系のジャーナリストが嗅覚を働かせても引っ掛からない。それらを面白く連載する傍流の雑誌は幾らでもあるのだから相当に真っ当なのだろうという評価は出来る筈である。

 

立憲民主党政権交代であなたのくらしを豊かに」

政権交代を目標に訴えるが、兎に角、民主党政権は評判が悪い。未だに冷静な評価ができない一部の層が根強い。とは言え、その後継者として幾つかの分裂と合流を経て、ひとつの形になりつつある。とは言え、くらしを中心に訴えるのは、小沢一郎新進党辺りから系譜だろうと思う、兎に角小沢が言い出した気がする。個人的には胡散臭い。とは言え、人材が育っている印象が最もある。

 

この政党にはある色がある。何と言えばよいかデザインが統一的なのである。敢えて言うならばかわぐちかいじの描く護衛艦色である。

 

とは言え、この選挙を野田佳彦で戦うのはどう出るか。古いという感触が拭えない。前党首の泉健太の漁夫の利を得た印象も強く、野党時代の谷垣禎一の貢献を奪い取った自民党と同じ印象がある。

 

「くらしを豊か」には、もちろん経済に関する、特に貧困層に対するメッセージである。特にアベノミクスへの批判が多いがアベノミクスは出城に過ぎない、本丸は小泉革命である。それを明確に主張しない点でどうも眉唾である。

 

あと安全保障の訴えなかったのは、さてさて沖縄の鳩山由紀夫の失敗を励起するからだろうか?

 

アイコンとしては政権交代とくらしの弐点に絞っている。その点では何ら強い印象を受けない。キャッチフレーズとしては弱いし埋もれている。

 

国民民主党「手取りを増やしインフレに勝つ」

老人安楽死を提唱した玉木雄一郎を中心としたどちらかと言えば、一点突破型、シュワルツランツェンレイターの政党である。既に今をデフレ状態と見る政党は少ない。円安の影響でインフレ状態に陥ってる。これが良いインフレなのか悪いインフレなのかはそれぞれの立場による。だが現実にある生活の苦しさについてどのように対策を立てるかは選挙の争点である。

 

人によってはもっと抜本的な所で信が落ちているのではないか、という懸念もある。基本的に政治家に出来る事は生活改善で、生活改善とは手取りの事である。だが、この正論は正しいけれど方法が極めて難しい。目的地は正しいのに通ってきた道が間違っていたなど幾らでもある。

 

ここにきて幹事長の榛葉賀津也が面白いと話題になっている。この一週間で化ける可能性はある。twitterではたまにドキッとするような言論を書いたりしているので、それなりに注目すべき人なのだろう。どうやら蓮舫の天敵らしい。

 

社会民主党「がんこに平和 くらしが一番」

実直である。社会党の流れを汲む残党という感じがする。ジオンか。左派本道である。とはいえ、ネトウヨ化が激しくビジネス化している現状では流石に多勢に無勢である。平和憲法という点では共産党と並び立つ最大勢力と思われるが、では社会党共産党の違いは何か。社会主義共産主義の違いか。どちらもマルクス主義からの分派なのか。いずれにしろ縮小化しつつあると思われる。実直である。そこにはテラヘのラストの寂しさがある。

 

共産党「いまこそCHANGE」

国政を語るなら大上段である者も地域でもし生活で何かに困ったならば、最後に頼るべきは共産党である。日本という国では制度化はされていないが、セーフティネットの最後の拠り所は共産党である。実質これは制度なのである。

 

これと非常に同様の機能を発揮したものに日本には元老がある。その終焉が戦争への道を加速したのは何か暗示的である。日本はこのような目に見えない実質の機能を失う事に無頓着でありすぎる。そこが教育の失敗と呼ばれるのは戦前も現在も同一だろう。

 

何かに困れば共産党を訪ねる事は考える。その結果として県政までは共産党に投票するようになったとしても別に応援する価値はある。

 

立憲民主との協力関係を拒否られて、現場が是々非々でやっている状況で、共産党労働組合がなぜか敵対しあっているなど、ちょっと不思議な状況がある。全てが金に群がる中にあって、共産党は少しは信じられる政党という気はする。金に群がったらそれは堕した資本主義になってしまうから、当然と言う気もする。

 

維新「古い政治を打ち破れ」

古い政治を打ち破ったら何が出てくるか。くじ引きである。大阪府民は情緒が強いから大阪維新を選択した。調度、森喜朗を選び馳浩を選んだ石川県民にも似ている。どうも日本は国が動く時は西から始まるらしい。先の変革期も鹿児島と山口から始まった。何か独特のアルゴリズムがあるのだろう。

 

という事は失敗も大阪から始まる筈である。秀吉がいたから家康はあれだけの政権を築けたともいえる訳で。大阪で行われた盛大なる社会実験の結果がそろそろ出る頃だと思う。

 

れいわ「世界に絶望している?だったら変えよう。れいわと一緒に」

世界に絶望している人は多いだろう。少なくとも日本には。ネトウヨなどどう見ても絶望の反動である。防衛機制にしか見えない。そこにはアイデンティティの危機、排他された孤独感、アノミーからの逃走、それらへの悔しさ。回避し、回復を願う心、そういう行動としての現象と思われる。

 

「変える」は、今年のノーベル経済学賞でも語られていたキーワード。兎に角、現状に問題があるなら変えるしかない。その結果が良くなる保証はない。では、現状維持は問題解決の方法ではないのか。だが、長い冬には冬眠するのは古来からの方法である。変えるだけが対応方法ではない。とはいえ、変えるのも対応である。

 

れいわはある意味特殊装置だ。ある場面では非常に頼もしく鋭く切り裂く、その同じ刃先が別の問題では、非科学的であったり極端だったりする。能登地震では売名と呼ばれつつも真っ先に行動したその行動力は驚嘆に値する。

 

凡そ行動力に関してはこの政党を超えるものはないのではないか。

 

保守党「日本を豊かに、強く。この一念で立ち上がりました。」

基本、安全保障。百田尚樹の作品は確かに面白い。読み手の気持ちを揺さぶるのがとても上手だ。その彼の手腕をもってしても政治で支持を得えているとはとても言えない。演説と小説は違うという証左であろうか。

 

しかし選挙戦は大きく変わっている。東京都知事選での石丸伸二の台頭には刮目する。潮目が変わった。既存の政党が従来通り、小説を朗読して人々の心を掴もうとしている横で、PCに向かって黙って打ち込んでいる人たちがいる。それを見て何をしているんだろうと不思議がっているとyoutubeで大ばずりしているような断絶がある。変革期には何気なシュールさがある。

 

参政党「にほんをなめるな」

最初に目にしたのは新聞の政党広告であった。そこで挙げられた数々の主張を読んで、これは鎖国だなと思った。この考え方が非常に気に入ったので進めてみよう。これは別にこの政党に限らないが、ネトウヨの票田を取り組む、またはSNS層の票田を取り込もうとするなら、凡そ鎖国政策という日本の原点に戻るのが良いのではないか。

 

それらの主張を聞けば、どう見ても我が国が一国で単独でやろうとしている様に見える。安全保障でも中國に対抗すると叫ぶが、兵士の数(200万vs25万)、艦船の数(400隻vs55隻)、航空機の数(1200機vs280機)、潜水艦の数(60vs22)、核保有数(500vs0)、全て日本の自衛隊アメリカ同盟ありきで設計されている。また中國には大陸経由で資源を輸入できる長期戦が可能な環境があるが日本は海上経由でしかできないという地勢的な違いは決定的とも思える。

 

ウクライナ戦争ではウクライナは支援は受けつつも単独で継戦している状況にあって、台湾であれ、日本であれ、アメリカが全面に出てくるとは考えにくい。仮に台湾防衛をアメリカが放棄するとしたら、それは現実にあり得ると思うが、アメリカを中心とした安全保障は見直すとアメリカ自信が決断した事を意味する。

 

そうなった場合にアメリカはどのような戦略転換をするのか。逆にソビエトに対してはどうしてアメリカはあれだけ強烈に対抗したのか、という疑問が浮かぶ、これらに一定以上の回答をして解決を図らなければならない。

 

孰れにしろ、そういう世界情勢において鎖国から再出発するという日本独特の思想は悪くはない。しかし、0である外交を+1するには大変な思想の転換を求められる。日本が先の大戦に敗北した理由はなにか、答えのひとつは自国単独で問題を解決しようとした点がある。

 

日本が中国大陸に侵略したのは建前はロシアの脅威である。本当は陸軍の大将たちが勲章が欲しかったからというのも理由ではあるし、若手将校のクーデターを抑えるためというのもあっただろう。が全て、国内の内政の延長で国外に出た。

 

その時の日本にとっての外交とは、国内の事情を説明せずに中國の既得権益を争う他の国々と合意を得ようとする事であった。それに見事に失敗した。当然である。アメリカ相手にいっしょに中國の利権を独占しましょうの一言さえ言えなかったのである。いや、確か、ヘーゼルの密書(上田早夕里)ではそういう話もあった気がする。

 

投票行動は恐らく日本の歴史では一度も見られなかった解決方法のはずだ(清須会議も違うよね)。所が、宮本常一によれば議論でとことん解決する村の話が出たりする。それが本当の民主主義ではないのか、17条憲法第一条になんと忠実である事か。

 

投票行動は決して民主主義の本道ではない。この原則は確かだ。民主主義は議論でとことん語り尽くすのが本道である。所が人が増えてゆくと物理的にこれが不可能になる。村から町へ、町から都市へと発展してきた事で議論の変わりとなる採択が必要となった。

 

それが投票という乱暴な方法に至った。最初に投票という方法を取った人たち(太古のギリシャ人よりも古い?)たちは忸怩たる気持ちがあったはずだ。なんと乱暴な。そこで勝利する事は決して議論の結果ではない。

 

我々はその時の悔しさを解決する手段を未だに見つけていない。それでも日本人の在外居住の人の投票は200kmも離れた場所に車で3時間かけていかないと投票できないと嘆く。一日が投票のために潰れてしまうと。

 

電子投票の設計をするのも面白さのひとつであろう。如何に不正を排除できるかを設計するのは本当に面白い。だが在外のひと達はそれだけ投票に不利な状況があると訴える。確かにその通りだとは思う。

 

しかし。確か馬車しかない18世紀の頃のアメリカ人(インディアンを追い出した移民たち)は投票のために三日前から移動を始めたそうである。それを当たり前の当然の事と理解していたと聞く。

 

生活の変化といえばそれまでである。