「自衛隊は暴力装置」仙谷官房長官、撤回し謝罪

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世間では、暴力装置とはマックス・ウェーバーの言葉だ、やれレーニンマルクスの系譜だの忙しい。暴力装置なんて生まれて初めて聞いたが、言いたい事は分かる。

 

自衛隊とは暴力に似た軍事を使う装置だ、という意味だ。装置というのは、この場合、組織、構造という意味だ。

 

つまりは、シビリアンコントロールという考えの根底にあるものが、この暴力装置、という事。もっといえば、権力とは、暴走したらもう人間には止めようがないから
飼いならすための綱が必要でそれが法律というもの。

 

更には、軍事組織を自衛隊と呼んでしまった、憲法上非軍備との整合性はどうなのと言う話もある。だけどね、これらは全部本質ではない。

 

こんなめんど臭い事で本当に大丈夫か、と言う事だ。例えば議論というものは、お互いの主張をぶつけ合ったほうがいい。

 

感情的になったり殴り合いもあるが、本質は、異なる意見を戦わせる方がよい。

 

それは次のような理由による。

  1. 相手の欠点を見つけることができる
  2. 自分の欠点を見つけてもらうことができる
  3. その上でどちらでもない結論を見つける可能性がある

 

この欠点を見つける行為は本質を突くよう努めるべきで、差別語を使おうが、犯罪を匂わそうが、法律違反であろうが、どうでもよろしい。

 

相手の欠点を突く、というのは長所を見つけるのと同じ行為だ。暴力装置と呼んだ、これが間違いであれば訂正すればいい。しかし、そりゃそういう面もある、と納得したならそれで終わってもいい。

 

自民党世耕弘成は、防衛省が政治的な発言をする部外者を関連行事に呼ばないよう求める次官通達を出したことを取り上げ、「民間人の自由な発言を制限する行為だ」として、防衛相を追及した。

 

なるほど、この指摘は言論の自由に対する指摘だとすれば、正しそうだ。であれば、これは言論の自由をどこまで制限できるかという話になる。

 

現在の政府は、自衛隊の行事にそういう発言する人は呼ばないで、という方針を取った。これは言論の自由を制限するものではないか、という質問だ。

 

それに対して、自分たちの行事では、そういう発言は控えましょう、他で言いたいならどうぞご自由に、と言う事であって問題はないように思える。

 

具体例がないから、どういう発言かはわからないが、もっと問題にしたければ裁判で争うべき。なんとも、話ひとつするにも、大変な世の中になったものだ。


冗談は分かってもらえない、言葉ひとつに突っ込まれる。どうも、この国が失ったものは、笑う、という行為かもしれない。

 

実は、野党こそが国の姿を正しく表わす存在かもしれない、とさえ思えてくる。国のありようは、野党の鏡ではないか。

 

詰まることろ、民主党への不満は、結局、次の一言に尽きる。それは、ボス猿を失った喪失感から来ているものだ。自民党が負けた事に、何かの喪失感があるのだろう。


それは、世界は変わる、という当たり前の事を知ってしまったが故なのか。多分、子供だと思う。

 

夢見る人は、ビートたけしが大統領なら全て上手くゆく、とでも思っているのだろうか?