年金改革法案が審議入り=安倍首相「支え手増え生活安定」

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年金は、非就労者の所得を就労者が補填する仕組みだから、必要額の徴収を何人から行うかで負担額は求まる。という事は、老齢者と若者の年齢構成だけで簡単に予測できる話である。

 

つまり年金問題の肝は開始時点の1961年(昭和36年)には既に制度設計した官僚たちにはあったはずだし、人口動向に変化が見られた昭和50年代にはほぼ正確に将来の見通しも立っていたはずである。

 

それは官僚に限らずとも、計算してみた人は沢山いたであろう。そして、現在は、非就労者の人数を減らす、開始時期を遅らせるなどの方法しか残っていなかったというごく普通の結論に至ろうとしている。

 

おそらく人数構成のグラフと支給額のグラフを描けば、問題は明らかであり、また打つ手も明白である。多くの人は問題を先送りにする事で、経済の幻想的発展を夢見ていた。恐らく、それだけに期待していた。

 

案の定、無理だったという結論である。年金制度は、世界的に見ても良く出来ている。少なくとも老後の不安を解消してきた役割は捨てがたい。だから、捨てるという選択肢はないはずだ。

 

だが、高齢化とは長生きが増えたという喜ばしい事である。みんなが仙人になって霞を食べれるようになれば何の問題もない。高齢者が増える事は、その人たちがお金が循環するという意味でひとつの市場を生み出す力になっているし、贈与という金の再分配機能も部分的に担う。

 

一時期、竹中平蔵のようなクズが、高齢者が持っているタンス貯金をターゲットに略奪する気であったが、国家が信頼されない以上、市民が吐き出すはずがない。年金制度についても有益ではあっても、国民の誰ひとりとして、これを全面的に信用している人はいない。だから最後は貯蓄が必要だと認識している。この構図が理解できない人は日本にインフレターゲットを持ち込めると信じている。

 

マスクの買い占めが社会問題化している。多くの人は必要で買うはずだ。だが、そういう人だって普段なら一箱しか買わないだろうけど、今のご時世だから、と二箱や三箱は買おうとするだろう。だから店はひとり一点と決めた。

 

それでも家に50箱あってもまだ買おうとしている人もいるそうである。そういう話を聞くとどうしても老人たちだろうと思ってしまう。なぜかは知らない。そういう連想をするように刷り込まれているからか。もちろん、転売目的で購入する若者だって腐るほどいるはずである。合法的に取り締まれないが、どちらも医療崩壊を目論むテロリストと呼んでも差し支えない。というかテロリストには大儀がある。彼らにはそれさえもない。

 

この騒動でマスクを買う事が安心感を得る唯一の方法だとしたら、依存症的になっている人もいるに違いない。国家が国民に与えられるものは安心感しかないとしたら何ともさもしい話である。そういう理解の仕方でしか国家と国民の関係が築けないとしたら何とも悲しい事である。戦争中には馬鹿らしいと思いつつも飛行機に乗った人たちがいた。その若者たちは無意味と知りつつもエンジンを廻したのである。国家に残る老人たちのために。

 

現在のコロナ騒動も老人のために若者が我慢する構図がある。リスクが年齢別で異なる以上、リスクの低い世代と高い世代では別のアプロ―とが可能なのは自明だ。最もリスクの高い側に合わせるのは当然の一手であるが、それは通常時の考え方である。戦争にさえ例えられる時期にそれが正攻法であるかは疑問だ。だが、この考えも短期だから通用する。

 

どんな若い人でも何年かすれば老齢に達する。年金制度はそういう制度だから、若い人に不利だからと捨てる訳にもいかない。今必要でない事は明日必要ない事を証明しない。

 

世代間で順繰りに支える形に制度設計したのは、自分が振り込んだ分を払い戻す保険制度ではない。何故そうしたかと言えば、何十年の時間軸で考える時、インフレ率を考慮すれば40年前の払い込んだ金額など微々たるものに変わっている可能性が高い。

 

これは制度設計上のトレードオフである。保険ならば、支払った金額に利益分を上乗せして払い戻す。それが必要な金額に足りるかどうかは保証できない。年金はそうしなかった代わりに全体の入支出の構成比が問題となる。支出額を人数で割る。すると支出額の決定が必要となる金額を決定する。それを担い手の人数で割ると月当たりの引かれる金額が決まる。この金額が給与の150%である可能性もある。逆に上限比率を決めれば、やはり支出額が足りるかは保証できない。

 

互いのトレードオフに対して、どう考えるのが適切か、どう推測するのがよいかは決め難い。学校は計算の方法は教えても決断する方法は教えない。どちらにも不都合がある時、人々は自分の利益になる方を選ぶ。

 

年金制度を改革する一番の方法は、高齢者を減らす事だ。日本の高齢者(>65)は3500万人、27%だそうである。75歳以上は15%である。年間100万人が亡くなり、60万人が生まれる。がつんと改革するなら500万人程度の高齢者がいなくなれば可なり改善されるはずである。だが、先の戦争の死亡者数でさえ300万人である。この人数は絵空事である。分かるが、それが不可能でないのがコロナに対する恐怖である。

 

江戸時代には宵越しの金は持たないと粋がれるほど、社会保障が充実していた。という訳ではあるまい。今とは違う互いに助け合う機能があったのは確かなはずだが、最後は見捨てても仕方がないという達観も確立していたと思う。現在よりも火事や疫病にも弱かった時代において、死はもっと親密であったろう。遊郭の娘が最後は河原に捨てられるような世界でもある。半分以上は運である、そういう考え方と慣れ親しんでいたとしても不思議はない。その前提の上で人々は如何に生き、逝く事を考えてきたか、それはありそうな話だと思う。

 

戦前に年金制度は限定的であったが、それは社会構造の基本としてあった農村がその機能を有していたからだ。農業と大家族という構造が機能していたからである。戦後の急激な都市化に伴い核家族化が進む過程で年金制度は設計された。ひとつは、持ち家を有し、家族で商売をし、後継ぎがいるケース。もうひとつが、社宅など賃貸に住居し、企業に勤めるケース。これらで考えられる老後の決定的違いは持ち家の有無である。住む家があり後継ぎと同居している場合は、負担は小さくて済む。賃貸である場合は家賃分も年金に含んでおく必要がある。

 

それぞれの時代が年金と同等の機能をどこかに有していた。おのずと限界があるにしても、地域や年度においては楢山節考的世界があったとしても、また生まれてきた子を間引く風習が貧困さや社会倫理に起因して行われていたとしても、人口に対する社会福祉はずうっと古くから人間社会の基盤であった。

 

マスコミが取材と称して医療機関の業務を邪魔しているという話を聞く。彼らはジャーナリストという正義を振りかざすテロリストのような所がある。テロリストには大儀がある。彼/彼女らにはまたもそれがない。彼らは伝えたいのではない。話題になりたいだけである。そのためになら医療崩壊した方がいいくらいに考えている。

 

こんなの全部、始まる前から分かっていたことじゃないか、という気がする。それが始まる前に気付かなかったのは自分の勘が悪かっただけの話。だからといって仕方ないという気にもならない。何か手はあるんじゃないか、という気がする。もしあればとっくの昔に誰かがやっているだろう事も分かっている。