東電の要請は全員撤退=事故調に反論―枝野氏

www.tokyo-np.co.jp

 

日本には大きな三つの事故調査会がある。

東京電力福島原子力発電所における事故調査・検証委員会(政府事故調
行政/内閣官房

www.cas.go.jp

 

福島原発事故独立検証委員会民間事故調
民間/財団法人日本再建イニシアティブ

apinitiative.org

 

東京電力福島原子力発電所事故調査委員会(国会事故調)
国会/東京電力福島原子力発電所事故調査委員会

warp.ndl.go.jp

 

このニュースを読んでいるとトラブルを経験した事がない人の論調に感じた。言っている内容がデスマーチひとつさえ経験した事がないんじゃないか、という感じが強くする。

「ほう、さすがエリート様は分かっていらっしゃる。是非お手並みを拝見して勉強させてもらいましょうか。」

 

国会事故調、現時点での論点整理(第二回)より

今回の事故の対応においては、官邸が、オンサイト(発電所内)の事故対応に過剰な介入をしたのではないか。

要約『おまえ(菅直人総理)のせいで被害は拡大したんだ、お前の人災だ』

 

現場からすれば上の人間なんて邪魔に決まっているのだ。しなければならない事は決まっている、それ以外の時間は明らかに惜しい。

 

これはデスマーチに良くある日常の出来事だ。毎日の進捗報告が必要だ、それをするのにも時間はゼロではない。当時の現場のプログラマはその上司を無能の証明と呼んでいた。一日で大幅な進捗がある訳がない。それが可能なら遅延などしない。その報告の時間だけ無駄は明白であった。

 

しかも報告する相手も特にマネージメントしている訳ではない。ただ更に上司に状況を報告するためだけにある。その人もまたその上にとエスカレーションしてゆくだけである。逆下請け構造である。その結果として得られる効果は、トップ同士で会談する時にそんな事も把握していないのか、と言われないだけの事である。

 

トップの老害たちが知っていて現場がどうこうなる訳ではない。既にマネージメントでリカバリできる状況ではない。そう現場は考えている。

 

しかしである。上には上の考えがある。

 

現場を知らない人達への連絡、報告のために。デスマーチでは、客先や自社の幹部への報告が必要だ。こんなの無駄だ、黙って視ておれという現場の声は勿論だが、それだけでは済まない。失敗に終わる可能性がある以上、監視し打てる手を少しでも残そうとするのは自然である。

 

現場が崩壊してからでは打てる手が少ない、その前に手を考えたい、というのが上司の考えである。現場が当然と思っている作業の中に本当に無駄はないのか。直接の当事者でないから見えてくる事がある。

 

特に新しいコストの投入は現場には権限がない。開発部隊が四苦八苦して居る所に新しい評価部隊を投入するには、上長の決断がいる(要求は出せる)。

 

政府、官邸がどのような情報収集に基づいて、どのような手を講じたのか、その全てを網羅して見なければ客観的な判断など出来ない。

 

例えば、報告、連絡のためのコストを小さくする、というのは今後工夫してゆく事である。メールというものが、自然と普及したのは、そのコストの小ささがある。相手への負担も小さく、報告する側の負担も小さい、非同期でやりあえるからだ。

 

介入を短絡に非難するには状況が巨大すぎ情報が欠落し過ぎた。それを簡単と呼ぶ人には評価できるはずがない。必要なのは想像力である。

 

官邸を含めた危機管理体制の抜本的な再構築が必要ではないか。特に初動の重要性から、事故発生時に直ちに対応できる危機管理体制作りが求められているのではないか。

要約『もっとうまい仕組み造りができるだろ』

 

これは出来ない。想定内へ対応する事は簡単だ、想定外に対して迅速に対応するのは難しい。それが可能ならシビアアクシデントにはならない。それが無理だったから大変になった訳で、そうなった以上は、悪化を防ぐ手段とリカバリする手段しか取りえない。そして最悪への準備も始めておく必要がある。

 

即応する体制と言うのは簡単である。しかし、即応できないからこのような意見がでる訳であって、すなわち、初動に失敗したらどうするかはどれだけ準備してもそのいずれでもなかった場合の検証でなければ意味がない。

 

そのような検証が出来ないのなら想像力が足りないのである。

 

原子力災害が発生した場合、すなわち緊急時、特にシビアアクシデントが発生した時には、オンサイト(発電所内)については事業者が責任をもって対応することを原則とし、オフサイト(発電所外)については政府等が責任をもって対応することを原則とするべきではないか。

 

また、今回の事故の教訓を踏まえ、政府は事故対応にあたり、指揮命令系統を一本化するべきではないか。

要約『現場の事は現場に丸投げしろよ』

 

そんなバカな。


オンサイトを事業者が対応するのはいい。所が軍隊でさえ戦線を維持できなくなれば壊走する事がある。責任と言っても現場は死守よせで全滅すれば消滅である。その責任はだれがどう引き継ぐのか。現場が責任者不在になったらそのまま放棄していいのか?後方はさっさと逃げるのみと言うのか。それでは牟田口廉也の再来である。

 

内外について全体を把握しトータルで指揮する組織は絶対に必要で、そう考えれば、政府はオンサイトに口出しするな、とは言えない。しかし現地を混乱させない合理的な指揮系統は必要である。

 

戦線が維持されているならば口出しする必要はない、そうでない時にどうするか、それを考えるのは難しい。壊走を防ぐためにどうするのか、どう命令を出すのか、撤退するのか、玉砕するのか、それは本当に現場の状況に即した妥当なものか。

 

それはどう決めるのか。情報は交錯している。そこに答えがない。しかもこれらは予め決めて置けれるような安穏なものではない。

 

結果論でしか答え合わせするしかないものである。そこには失敗であっても最善がありうる。それが分からないのは想像力の欠如である。

 

原子力災害が発生した場合、すなわち緊急時には、事態の進展を先取りした、迅速かつ的確なリスクコミュニケーションが不可欠ではないか。

 

緊急事態にあたって、事故現場での事態確認ができないとして、確実な情報のみを発信するという平時の対応をし続けたことが、被災住民の避難にも甚大な混乱と被害を引き起こしたのではないか。

要約 『拙速は巧遅に勝るよな』

 

まさしく孫子の言うとおり。実際の戦場では拙速どころか、拙遅の連続ではないのか。情報が入手できたら正しく判断できると思うあたりが素人である。

 

twitterのTimelineに流れから必要な情報を抜き出すだけでも大変なのに。シビアアクシデント、トラブル、デスマーチの時に、後から見て重要な情報は100の1つくらいであろう。しかしこれが雑多な数多のノイズの中に潜む。

 

勿論、決定的に重要な情報が入手できない事もある。だから先手を打て、安全サイドに転がして判断せよ、は分かる。しかし30万の人間を一度動かし始めたら、もう止める事はできない。後から訂正する事は不可能である。動き始めた大型タンカーはもう止められないのである。その先に岩礁があったとしても。

 

つまり、命令は一度だけ、それが遅ければ被害が出る。ではさっさと動かし始めるのが正解か?パニックは必至である、後から違う情報が入ってきたら?その命令がもし間違いだ気付いた時には?拙速が被害を拡大する可能性もある。

 

どうする?だから悩む。こんなもの責任者のイロハである。だから丸投げする以外に何ができるというのか。託すしかない、事後では手遅れである。その前の段階で、どの人材がどこに配置されているか、準備で決まる、それしかない。

 

原子力災害における各事象が急速に進展する場合、初動の避難指示にあたっては緊急時迅速放射能環境予測ネットワークシステム(SPEEDI)の活用は困難ではないか。

 

モニタリング手法の多様化と測定地点の多数化・分散化に努めるべきではないか。政府の中ではSPEEDIの活用方法についての認識が共有化されておらず、住民にもその機能が正しく伝えられていなかったのではないか。

要約 『SPEEDIって使えねぇー』

 

全ての電気が止まり、ラジオだけが頼りの状況において、どういう対応ができたか、SPEEDIというシステムはその前提のシステムか。もし違うなら、設計に認識不足があり、運用も認識不足があり、そうやってシステム検証をする事はいい事だ。

 

全体を通じての認識として、これまで原子力の安全の議論はなされるが、住民の健康と安全確保という視点が欠けていたのではないか。その結果、安全規制において、深層防護の第4層にあたるシビアアクシデントの対応、第5層にあたる防災の観点が欠落し、被害の拡大を招いたと考えられる。

 

リスクコミュニケーションにおいても混乱を防ぐという名のもとに情報発出側の責任を回避することに主眼が置かれ、住民の健康と安全は顧みられなかった。今後の組織、危機管理の制度設計においては、住民の健康と安全確保の視点を第一に考えるべきではないか。

 

また国民の命を守るという目的から見ても、発電所現場の作業員の安全を守りきることが重要ではないか。

要約 『いつでも住民が被害者じゃねぇーか』

 

広域災害で被害者がその近隣の住民でなければ驚きだ。被害者は何時でも住民である。それ以外ありえまい。

 

しかしパニックを最も恐れるのは当たり前である。取り返しがつかない状況、アンコントロールを最も回避しようとするのは正しい。制御下において1人しか救えない方を、制御不能にして全て放り投げても10人が生き残るよりも、手段としては採用するだろう。

 

ここが難しい。パニックになって個々に任せた方が生き残る数は多いかも知れない。コントロール下におくよりも生き残る人数が多いかも知れない。武術の奥義にも最後はがむしゃらにやれがあると言う。つまり制御不能でやれという意味であろう。再現不可能な状況でだた一つの選択しか出来ない事象が起きたのだ。

 

こうした方がもっといいのではないかという提言はよい。しかし、その検証はもう一度、それを起こしてみるしかない以上、安易に結論付けれる訳がなく、シミュレーションの繰り返しとならざる得ない。それは空論だよ、を何回繰り返せば現実らしさを入手できるか。

 

どういうモデルとパラメータでやればどういう結果になるか、それをこの震災に適用するには、どれほどの繰り返しが必要となるか。それぞれの少しの違いが全く異なる未来を描く。この調査会は、そこへの想像力に欠けている。安易すぎるのである。

 

国会事故調が最も人間同士のコミュニケーションに重きを置いて調査している点は注目に値する。大震災における大混乱の中にまともなコミュニケーションがあったとは思えない、情報は錯乱し誤解し混乱は自ら増殖していったはずである。

 

その前提に立ってみる時、シビアアクシデント下において、どのようなコミュニケーションが成立しえるか、これを検証する事は大変に重要な事だ。ただ少しばかり役者不足感はいなめない。

 

このような議論をする場合に大きなプロジェクトを成功させた者の参加は当然としても大きな失敗をした者たちこそ参集させなければ意味がない。傷を舐め合う為ではない。それらの人々が忘れられず、こうしておけばもしかしてという事を別の事象で検証できるからである。

 

恐らくそうした所で意味はない。正解は得られないからだ。またひとつ答えのない問題が積み上げられるだけであろう。

 

それでも、例えばみずほ銀行のシステム統合に失敗したプロジェクトや、羽田空港のシステムトラブル、そして原子力発電所事故に参加した人達の間には共通した何かがあるであろう。


以下は菅直人のインタビュー。
情報は混乱していた事、最悪の場合を想定していてその時には打つ手がない事を早い段階で知っていた事が分かる。

www.jiji.com

 

「一つは本当に分からない。つまり原発そのもの(の計測器などが)壊れているわけだから、情報が分からない。情報がないから上がってこないという部分と、ある程度、現場に情報があったとしても伝わらなかった部分の両方があった。」

 

「今回、10万人や20万人に避難してもらったが、それでも大変だった。もしそれが1000万人、2000万人だったら、私は今の備え、法律、制度を含めて全く不十分だと思う。私が実際に経験してみて。」

 

これらの事故調査が、日本のシステム開発への提言を出せればいいなと思う。これはあの敗戦時に出来なかった事を取り戻す絶好の機会だと言えよう。