益子修前会長が死去、三菱自動車再建に尽力

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退任した時に、自動車免許を持ってなく、車への愛着もない人と言われていた。

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こんなに早く逝去するとは。余程の限界だったと思われる。逆に言えば、後顧の憂いを残したままの退任だったとも言えそうだ。

 

勿論、この人は三菱を立て直した立役者であり、かつ三菱らしさを破壊した冷血の人でもあるのだろう。暫くしたらこの人を題材にしたビジネス小説が登場するに違いない。

 

車に愛着がある事が自動車会社を指揮する重要事か、これは技術、芸術などの分野でも広く興味のある話である。勿論、愛着も知識も必須ではない。あってもいいが、なくても構わない。有ったからと言って何かが有利になる訳でもない。

 

ビジネスの本質は魅力とコストと市場である。どれだけ魅力があってもコストが高ければ売れない。コストが良くても魅力に乏しければ売れない。そしてそれらを受け入れる市場が必要である。

 

市場は見つけるものではない、作るものだ、と言われる事もあるし、潜在する市場を発掘するとも言われる。いずれも購買力があるには、人々に余剰がないといけない。

 

この人は基本的に退却の指示を取った人だ。だから、縮小は当然である。その時には、厳密に厳格に切り捨てられたものは短期的には反感も強いが、長期的には英断と言われる可能性が高い。

 

伝統や愛着の為に決断できないのはよくある。だから情に深い人では乗り越えるのは難しい。では切り捨てた後をどう考えるか、激震が大きければ失われるものは多い。だが、残っているなら伝統は新しい人が発掘するだろう。残っていなければまた始めればいい。

 

幸いにも三菱には多くの資料が残っている。そういうものを発掘してゆけば、また三菱らしさも生まれるだろう。駄目ならダメで新しく作ればいいだけの話。最悪そのまま縮小して消滅するならそれも仕方がない。それくらいの割り切りがなければ恐らく退却戦は戦えない。

 

縮小し濃縮して足回りをがちがちに固めるまでは、良い結果など目に見えないのである。その間は技術者も販売員も、夢の中で繰り返し練りに練っていればいい。いつの日か、陽の目を見るために。準備をしておけばいい。それしかないはずだろう。

 

業績だけを見れば、良い兆候は見えないはずだが、縮退するとはそういうものである。少し調子がいいからと再興に転じれば必ず同じミスをする。そもそも業績悪化した原因は非常に根強い不信感である。それを取り返すだけでは足りない。

 

市場の信用を取り戻し社内の人たちに蓄積が貯蔵されるのを待つ。そして二度とあんな厚顔な恥を起こさない、これは社風を刷新するという意味で、新しい車を作るよりも余程に大変な作業だったろう。

 

三菱の車に関する印象は、技術的には信頼できる事という感じだ。特に「走り」に関してはパジェロとランサーが作り上げた幻想があるので凄まじい。ここで幻想と呼ぶのは一般道で使いこなす必要のないハイスペックというイメージだ。

 

しかし、では三菱車の存在意義は何かと聞かれると、特段に車に愛着がある感じはしない。愛情はあるようだが、「これしかない」という何かが生み出せてない感じがする。どちらかと言えば、剛健なエンジニアリングの結晶という感じもするし、イメージでいえば、三菱グループでの技術開発を担う一端、そのフィードバックの過程で取り敢えず自動車を売る、そういう感じがする。

 

つまり、三菱重工業の一部を切り出したという感じがする。すると三菱の自動車の背景には戦車だの自衛艦、航空機がいるのかと考えると少しロマンが沸き出したりする。軍用仕様の皮を被った一般装備なんてどこかの漫画かSF小説のようで素敵だ。

 

組織の三菱という伝統がある。しかし、それは過去の三菱であって、これからは違う。ルノー・日産・三菱という枠組みの中で、なぜ三菱なのか、というものを確立する必要がある。グループ化と再編、電気自動車とAIというテクノロジーの転換、世界的な大変動の渦中にあって、次の世紀まで辿り着くための何かが必要な時代である。

 

三菱は今日だって走っている。