不正、乗用車全社に拡大=日本ブランドに傷、信頼回復急務

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トヨタ他5社が軒並み認証不正する位なら相当にこの制度の仕組みには複雑で人間の能力を超えているのではないか、という懸念がまずある。そういうシステムで車の安全行政を動かそうとしている官庁の存在は、企業から見れば、ビジネス環境のリスク懸念である。それは日本という環境とのトレードオフである。

 

国家としての安定性、治安の良さ、労働者の確保などは企業にとってベネフィットとなる判断材料であろう。当然ながら官庁への申請許可などもそこに含まれる。

 

賄賂が公然と存在する国家でどれだけのコストが必要か、そのための手間暇、信頼の低下を考えれば、民主主義国家の最大の達成事項は、官僚から賄賂を排除する力と思われる。主権在民という根源が賄賂=他市民の権利侵害という形で批判しやすい。

 

これが民主主義国家でない場合は、権力の根源が王の権威や神にある場合、その臣下もいばりだす。これは権力の移譲がなされ、かつ、その対象には移譲されていないから、権威が賄賂を正当化する。神の代理としてそれを要求する事に論理的破綻はない。

 

近代日本、大日本帝国に於いてあまり賄賂は聞いた事がない。江戸老中の田沼意次山県有朋では良く聞く話だが、それでも蔓延したとは聞かない。それは現人神である天皇を辱める行為として、それを抑制できたのだと考えれば納得は出来る気がする。本当かどうかは分からないが。

 

敗戦濃厚になった時の軍部の身勝手な振る舞いを見れば到底善と呼ぶには能わない。特定の条件下、特に戦争などで極限に追い込めばどんな事でも起きる。それは当然である。

 

現在の日本で不正がこれだけ繰り返される、しかも日本で最も成功している自動車産業の分野で、かつ例外なくどの企業でも、とすれば、これは不正した企業だけの問題と考えるのには無理がある。

 

これまでは、短期納期の皺寄せ、トップの圧力による現場の暴走という構図が分析されてきたしかし、それは違う事が次第に明らかになったと思える。全社がやっているならこれはもう違う問題である。

 

不正の中には、VW で聞いたのと全く同じ不正さえ起きている。評価時だけソフトウェアを専用のものに書き換えていたという話しである。たしかVWは一兆円の和解金を払ったと記憶する。これらの日本企業もその覚悟があってしたのであろうか。それは有り得ない。

 

一兆円と言えば、東芝が経営破綻した額でもある。VWの体力が異常なのであって、日本企業にこの負担を覚悟してまで行うべき不正があるとは考えられない。それに気づかないならその経営者は無能であろう。はて、では労働者たちは会社の上司を舐めていたのだろうか?

 

不思議である。大前提として自社の製品の品質には絶対の自信があった筈である。その仮定があって初めて運輸省が要求する認証制度が無駄無意味自己満足と考える事ができよう。これ以外に通常は不正をする理由がない。

 

この国が要求する試験は、不正した所で何も問題がない、この認識が不正ができる条件である。これが各社に蔓延していたという事だ。国に対しては素人は黙ってろという気持ちがあったのではないかと思うのである。

 

国家は認可権を持つから強大な権力である。だから賄賂が平然と効力を発揮するのである。また官僚が熱心にやるが故に、検査を受ける側は辟易すると言う場合もある。官僚、または特定の個人に嫌な奴がいた、そういう問題の在り方さえ可能なのである。

 

検査する権力を持てば嫌な奴になる可能性が高い。腐敗はトップから始まるが、下もただ上から雫が落ちてくるのをただ口を開けて待っている訳ではない。ほぼ同時期に可能な限りの腐り方をしてゆくのである。糖尿病では腐ってゆく場所だけに問題がある訳ではないのである。

 

これを遵法意識の欠如と見る事はできる。禁酒法は悪法でも法であるというエリオットネスの矜持が足りないのである。戦後の混乱期に闇米を拒否して栄養失調で倒れた山口良忠判事への敬意が足りないのである。

 

もちろん司法に携わる者はそうでなくては困る。しかし民間人として、悪法ならば破る事もまた国家への忠誠となりうる。なぜなら悪法に対して従順である事は革命権の放棄になるからだ。その革命の物質的損失を回避するために選挙がある。

 

だが自動車産業に携わる経営者たちは自民党に対して献金し仕組みを変える能力を保有していた。この回路を使わずに安置してきたのである。もちろん、自動車産業に票田はない。全社員に指示する事は拒否できる。しかし金をちらつかせて制度の見直しを要求する事は断然ありうる。日本会議でさえあれだけ法律を通してきたのである。日本国内でTOYOTAに不可能があるとは思えない。

 

とはいえ、やり過ぎれば市場の信頼を失う。そうなれば不買運動は明らかである。江川問題でアンチジャイアンツに転向し読売新聞を読みながらジャイアンツが負けたと喜んでいる人はとても沢山いる。だからレクサスは売れるかもしれない。しかしトヨタは直撃を食らう。

 

とはいえ、企業の無法を座視する訳にもいかない。何もかも自由にすれば企業は必ず手を抜きネジを抜き混ぜ物を入れる。金を得る欲求を満たすためなら搾取も自在である。ブラック企業は場末の企業だけの専売特許ではない。大企業でも幾らでも報告があがっている。

 

日本の「車の安全確保の大前提となる認証制度」はつまり嘘である。海外での競争に品質を掲げる日本企業は、国内のローカル試験になど眼中にない。この試験に合格するための車づくりなど絶対にしていない。安全確保の大前提は国の認証制度ではない。独自の社内基準である。そこに絶対の自信を持っている筈である。

 

とはいえ、国の認証は有るべきだ。つまりこれは最低限度の検査という事になる。その範囲で保証する事が全体の底上げを満たす。だからそのコストがどうなっているかという話になる。世界で最も厳しいのがカルフォルニア州の規制と聞いた事がある。少なくとも排ガス規制はこれによって相当の技術革新が進んだ。巨大な市場が要求するものを企業は絶対に無視しない。

 

制度は必要である。ただその制度はそれなりのコストで維持されるべきだ。負担が多きなれば、それは電気抵抗と同じだから、電流=電圧/抵抗となる。抵抗が大きくなれば電圧を上げなければ同じ電流は確保できない。しかし電圧はそう簡単には上げられない。だから電流は下がる。

 

出荷検査、品質検査が日本の工業をここまで押し上げてきたが、それが長年続けば、改築を続けてこんがらがって枝が天に聳え根が地を這う旅館の如くである。余りにも古臭く手間暇が多大であるとしたら問題はそれを見直せない制度の側にあるというべきだ。ならば経営者もその変化には慎重だったのだから共犯である。

 

現場の声といいながら、この状況は、経営陣と現場との間に相当な解離があると見るべき。制度と実体の解離、生物は長く継続しながら余程できがいいのか、淘汰というやり繰りで刷新してきたのか、ここまで続いてきた。企業と国の関係はたった50年で、ここまで有名無実化してしまう。変化しないまま環境に適用した結果ならこの辺りで軋轢が出る方が健全だ。

 

今の殆どの問題がここに尽きそうな気もする。我々は進化論的袋小路に落ち込んでいるのではないか。

 

問題は、何が原因でどうすればいいのかが誰にも見えていない事、有効な手立てが見つからない事、だから、言語道断だの、意識を改めてだの、上からの圧力を無くしてゆくだの、そういう表面的なものではどうしようもない。それは原因究明でさえない。

 

トヨタ豊田章男会長には腹蔵の案があるようで「今は言えないが想う所がある」と会心の一撃を予告している。同じセリフは鳩山由紀夫も言っていたから不吉である。別記事によれば最近はYESマンしか置かなくなっているともある、いつものアレが起きているという話も聞く。何度繰り返しても同じ事になる妲己の悲しみかよ、という感想だ。

 

このタイミングで私の口から言えないのだがギャップはあると思う。今回の事をきっかけに、国と自動車会社がすり合わせて、何がお客さまと日本の自動車業界の競争力向上につながるか、制度自体をどうするのかという議論になっていくといいと思う。

 

まず現場の声を聴く。次に歴史をさかのぼる。どこで始まって、どう継続され、いつの間にか理由も分からず惰性で続け始めた事を知る必要がある。

 

これはとてもよくある風景である。コストを最小にする以上、意味も理由も聞かないテンプレート化とルーチンワークが理想である。何も考えなくても出来る様にするのはスポーツならゾーンに入った状態みたいなものである。なぜ常にそれを理想としてはいけないのか。どういう場合にそれが良くないと言えるのか。

 

短期ならそれでいい。スポーツもゾーンは短時間での話だ。だからそれを長く続けると淘汰される。問題は期間。ずうっと続けると誰も理由も知らない、聞いても分からないという作業が死ぬ程溜まっている。これは道徳の発生と完全に同じだ。

 

始めはちゃんとした合理的な理由があったのに、それがよく効くからそのうち日常での所作となる。それがルールやマナーとなって、不合理になって続けてゆく。その不合理さが止める理由にならない。

 

申請書の書式にさえバカバカしい程の意味不明の記述欄が沢山あるのだろう。誰に聞いても理由が分からない。しかし、そこを空白にすると通さないという約束事だけが残っている。迷信かよ。

 

このようなものは企業の側にも沢山ある筈で、この手順でやらなければならない。こうしてやるものだとは教わるが、どうして?には答えがない。

 

改善が確かトヨタの強みだった筈である。するとTOYOTAの中にもそうしていない部分があるという事になる。これだけの大企業なら大した影響はない筈だ。しかし徐々にそれは中核までを蝕む。動脈硬化が長く続けば望ましくない事は誰でも頭では分かっている。何時かはうまくいかなくなる日がくる、でも今ではない。だから今ここを去ったらどうなるかという恐怖と戦うのは難しい。

 

あの宮崎駿でさえ何度も引退宣言をしてジブリを次世代に託そうとした。その結果として。遂に。恐怖に耐えられなくなった。引退宣言をしなくなったとは、つまりはジブリは俺の代で終わるとの宣言に等しい。誰も現れなかった、あれだけのものをそう簡単に次世代に引き継げる訳もない。

 

その態度が恐らく次世代が生まれなかった理由だ。偉くなった人間の所作は難しい。自ら別の場所で別の仕事を見つける者だけにそれが可能と思える。その点でビルゲイツは立派だ。だが、あれだけの金を持っていればね。